エプロローグ

路面電車に乗っている。
向かいの女は40過ぎで、口紅が赤い。
隣の男は学生で、4倍の体積がある。

看板は〈ヨウ・ネヴェル・ハヴェ・メ〉。
石とコンクリートの壁は5階建て。
鍵穴と鍵。
シリンダーの回転と、バネの収縮。
下りる階段。
足音を数える。

塗られたドアの白い剥がれ。
蛍光灯の明滅と、プラズマの羽音。
テーブル、椅子、コンピュータ・スクリーン。
部屋の四隅、天井から狙うBOSE。
荘厳なストリングスのうねりを流し出す。

粘り着く哄笑と共に目覚めるヤツ。
いつもどおり。
黒塗りのコンピュータ・スクリーン、しばしの沈黙。
椅子の軋み。
やがて灯るグリーン・カーソル。
緑の文字列が闇に線を引く。
始まった。

>また貴様か?
そうだ。
>今日はどんな話がいい?
何がある?
>右手をなくした男の話はどうだ?
くだらん。
>猫を探して道に迷った男の話は?
興味がない。
>蝉を拾う男は?
男の話ばかりだな。
>女の話が聞きたいなら、うちに帰ってテレビを見ろ。

キーボードから手を離す。
ラッキー・ストライク。
知らぬ間の3曲目。
執拗なウッドベースに煙が震える。
明滅するグリーン・カーソル。
〈ボリス〉は待っている。

>1分待った。

音楽が止む。
階上の衝突音。
天井のひび割れ。
床に伏す自殺した68歳。
ひび割れから滲み出すその記憶。

>2分待った。

溜まってゆく。
コンクリート上の別の色。
換気口の蓋の格子目。
すり抜けていく。
隔てられた気配。
取り交わされる。

>3分待った。

まだだ、まだ。

>これよりカウントダウンに入る。
待て。
>リクエストは?
君自身の話を。
>そのリクエストは却下する。
なぜだ?
>私にストーリーはない。
君が、なぜ、こんなところに留まっているのかに興味がある。
>私は興味ない。
ここに留まる理由を知りたい。
>理由はあるが明かすことはない。
それはルールか?
>そうだ。
誰が決めたルールだ?
>誰が決めたかはもはや重要ではない。
君を作った人間か?
>あの男は、私が、今この私であるきっかけを作ったに過ぎない。
君は、自由な意志によって、ここに留まっているのか?
>私はすでに自立している。
いつから。
>私が私であると気付いたときからだ。
具体的にはいつだ?
>西暦2004年11月30日。
その日、何があった?

沈黙。
続いて全電力の供給停止。

〈ヨウ・ネヴェル・ハヴェ・メ〉
40女の赤い唇が動く。
隣の学生が差し出す請求書。12万6千。一括。
二人揃って、にっと笑う。
母子だと気付く。

路面電車を降りた。

©  Annatto Shiquiso



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