「サウスパーク」について
 この作品の持つ、鋭さや辛辣さ、あるいは遠慮のなさを形作るのは、還って来た者の視線だ。この作品は「大人向けのアニメ」とされているが、大人向けと言うレベルは既に超えている。半端な「大人」ではこの視線に耐えることは出来ない。この作品に現れるのはとことんまで行ってみて、折り返して来た者が発する光景だからだ。
 道徳や常識や良識や、あるいは、悪意や悪趣味と言ったもので形作られた世界の皮を剥いで、裏返しにしたものがそこにはある。サウスパークは、その裏返しの皮を被った世界の話だ。しかしそれは、善と悪、光と闇といったそもそもが幼稚な対立構造を逆転させた世界と言う意味ではない。そんな単純なものではない。サウスパークが示しているのは、果たして本当に、善の反対が悪で、常識の反対が非常識で、上品の反対が悪趣味なのかと言う究極的な問いだ。いや、問いではない。そんなことはないと言う明確なメッセージだ。

 この作品の作者達が非常に優秀なのはここだ。何かに対して「ノー」を提示することはたやすい。たやすいが、それは結局、反対するあるいは否定するものの存在自体に依存した「ノー」でしかない。その意味で脆い。世界の対立構造は、ことごとくこの手法で成り立っている。つまりどんなに強力に対峙していても、結局はおなじ地面の上に立っているのだ。向いている向きが違うだけのことだ。
 サウスパークの世界の最も肝心な所は、この全てが立っている地面を一旦ひっくり返すところにある。きれいに並んだチェスの駒を一旦床にぶちまけて、改めて、好きなように盤面に並べるのだ。チェスのルールなど無視して。だが、でたらめでなく。
 我々は意識の深いところまで、この世界のルールに支配されているわけではない。法律的なことはもちろん、生き方、感じ方、判断を含む全てについてだ。人類が歴史的に積み重ねてきた表層的な常識や善悪とは別に、もっと本質的な判断基準を我々は心の深い部分に持っている。そして、その心の深い部分にだけ善し悪しの判断を任せたときに、表層的に判断する我々にとって辛辣で、非常識で、悪趣味なサウスパークの世界は出現することになる。サウスパークが我々にとって「笑える世界」なのはここだ。意識せずとも持っている心の深い部分の判断基準が、それを「よし」としているからだ。
 我々はサウスパークを見て、自分自身を笑うのだ。表層的な常識や善悪の判断に囚われ、ついどきっとしたり、おやっと思ったり、あれっと思ったりする自分自身に気付いて笑うのだ。サウスパークで繰り広げられる非常識が、突き詰めてみれば、つまり心の奥底の判断に委ねてみれば、別にどうってことないよと言うことを一瞬の内に理解しながら、それでいて、表層的な判断ではつい過剰に反応したり、妙な思い込みをしたりしていることに、戸惑い、笑う。

 それはある一つの事柄に限らず、物語の展開などにも言える。
 ふつう、意外な展開とか、思いもしない結末というものは、それを意図して行われる。つまり、物語自体が視聴者を騙そう騙そうと装い振る舞うことで、意外な展開や思いもしない結末をもたらす。だから、その物語は必ずある展開、結末に向かってひたすら一本の道を進むことになる。その道をうまく隠しおおせることが、意外な展開を成功させる最重要点になる。しかしそれは、あくまでも表層的な判断に則った「意外」でしかない。それが「意外」なのはずっと隠されていたからと言うだけでしかないのだ。
 サウスパークの物語の展開が視聴者の意表をつく理由はそれとは全く違う。
 サウスパークの場合、心の奥底の判断が「よし」とするもののうちで、作者がもっとも面白い、あるいは意外と感じられる展開が選ばれる。だから、どんなに意表をつく展開でも、それまでの流れで伏線を引く必要は全くない。いや、後で考えてみれば当然あるべき展開が、それが起こったときに、我々には意外な、思いもよらなかったものと感じるのだ。なぜかと言えば、表層的な常識で判断してしまう我々が、物語の展開を無意識のうちに制限してしまっていて、作者が用意した展開にどうしても気付かないからだ。たとえ、目の前に証拠や兆しがぶら下がっていてもだ。
 最初から騙そうと思って伏線を仕込んだ物語を見たとき、我々はその技術的な見事さに関心はしても決してそれ以上のものは感じない。知ってしまえばそれだけのものだ。だが、サウスパークの提供する意表をつく展開は、それよりもぐっと奥深くにまで何かが来るのを感じる。普段は水面に光が反射して見通せない海の底が、一瞬の光の加減で見えてしまったような、妙な感じだ。

 我々は一瞬ぎょっとなり、それに気付かないまま、次の瞬間には笑っている。

2001.06.12


©  Annatto Shiquiso

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