映画「惑星ソラリス」について
【注意】まだ、映画『惑星ソラリス』をごらんになっていない方は、以下の文章を読まないことをお勧めする。


この作品が、SFの体裁を有しているのに、さしたる理由はない。神学から科学へと〈世界の認識方法〉を乗り換えた後の我々にとって、神学の手法より科学の手法の方が、より合理的に〈不可解〉へと挑戦しやすいからだ。神学の認識方法よりも、科学の認識方法の方が、〈世界の真実〉により近づきやすいことを、我々は知っている。神学よりも、科学の方が、〈より目盛りの細かい物差し〉なのだと現代の我々は知っているのだ。
かつて、ダンテが地獄を巡り、〈世界の在り方〉を示そうとしたように、『ソラリス』では、遙か彼方の未知の惑星ソラリスが、その〈世界の在り方〉を示す舞台となる。

そも〈世界〉とはなにか?
アプローチは二通りあり、どちらが正しくどちらが誤りだということはない。二通りのアプローチは、単に二通りの道であるに過ぎない。例えば、心理学と脳科学は、ともに人の意識・心についての学問である。どちらも、各個では十全とは言えないが、全く誤った方法だと言うわけでもない。ただ、自分自身の意識・心の他は、直接的には観察できないと言う点で、これらの学問には、最後の最後で辿りつけない一部屋が常に残される。人は、他者の意識・心の存在を、自身の意識・心のそれに〈共鳴〉させることによってしか、知り得ない。もっと言えば、他者にも意識・心が存在するのだという〈実感〉を自身の意識・心が〈創造〉できるか否かが、自身以外の存在に、意識・心を見いだせるか否かの境目となる。つまり、おそらく確かに存在するらしいと多くの人が〈実感〉している自分自身の意識・心以外の他者の意識・心の〈実在〉は、それを〈実感〉するはずの〈認識者〉の側の意識・心の〈有り様〉に全てかかっているのだ。

話が逸れた。

ここでいう〈世界〉とは、よって、次の二つが考えられる。
一つめは、単に、物理学の法則にそって存在する、〈空室〉としての宇宙。落下する雨粒、燃える太陽、広がる宇宙としての〈世界〉だ。この〈世界〉に、人の意識・心の介在・介入は必要とされていない。それは、いかなる意識体も必要としないまま、ただ、ありのままに、物理法則に則ってあるべくしてある〈世界〉だ。
そして二つめが、〈我々が見ているものとしての世界〉だ。人の本質が心である以上、その心が〈見ている〉世界は、たとえそれが、幻想、思い込み、勘違いであったとしても、〈事実としての世界〉を越える。心にとって、心が実感している(見ている)世界こそが、実在する世界であり、心の介在・介入を拒む世界は、たとえそれが〈事実の世界〉であったとしても、意味を成さない。そればかりか、心の介在・介入を〈拒む〉世界は、心にとってみれば、存在しないに等しい。それは、単に、知識であり、概念にすぎなくなる。

映画「惑星ソラリス」は、この〈心が見ている世界〉と〈事実としての世界〉との相克を描いている。相克? いや、そうではない。心(つまり人間)にとって、心の介在・介入なしの〈空室としての、事実としての世界〉が如何に危うく脆いものかを告げている。心は、たとえそこに出現した〈世界〉が、〈事実としての世界〉としては〈誤り〉であったとしても、それが、心の要求にかなっていれば、その〈謝った世界〉を〈本当の世界〉として受け入れようとしてしまう。論理的にそれが誤りであることを繰り返し指摘され、また、自らも十分に理解していながら、それでも心は〈謝った世界〉の方へとなびく。いや、〈謝った世界〉を〈本当の世界〉へと引き寄せる。
なにが言いたいのか。
つまり、心は(だから人間は)、世界を自らが見たい(感じたい)と思うものへと〈作り替える〉。意識的にということは殆どなく、言ってみれば、性向として、心は常に、世界を自分の好きなように作り替えていくのだ。ただし、それは、いつも、結果として良い方向へ、と言うわけではない。心がなぜ、そのような世界の見え方を望むのかは、実は心自身にも分からない。それは、最初にフロイトが作り出した、無意識に関する様々な概念に関係しているのかもしれない。が、ここでは、それには触れない。

「ソラリス」では、その〈心の性向〉について、登場人物達が自覚的になるような舞台設定が用意されているために、彼らは、その、自らの心の有り様の奇妙さ・奇怪さに、悩むこととなる。自らの、というよりも心一般の〈本性〉を、目の当たりにするときの、不気味さや驚き、戸惑いが、〈空室としての、事実としての世界〉の存在であろうとする、いわゆる理性と呼ばれる心の一側面を肥大化させてしまった登場人物達(つまり我々一般)を襲う。

さらにもう一つ、この作品には、興味深いモチーフがある。
クリスの死んだ妻、ハリーだ。
ある個人が存在すると言うとき、その存在の確かさは、その個人自らの〈宣言〉に拠るよりも、その個人を知る他者からの〈宣告〉に拠る場合の方が、より強力で強固となる。
ソラリスで〈蘇った〉ハリーは、まさに、この、他者(クリス)からの〈宣告〉に拠って存在する。すなわち、クリスの無意識の望みが、ソラリスに作用し、ハリーを蘇らせている。
ここで論じたいのは、ソラリスのその不可解な能力の信憑性や、科学的説明や妥当性ではない。この奇妙な情況で、一番興味深いのは、では、ハリーにとって、彼女自身の存在の妥当性や、根拠とは何なのかということだ。もっといえば、ハリーという存在は、ハリーにとって、どう認識されうるのか、ということだ。

先にも述べたように、ある個人が存在すると言うとき、その存在の強固さは、その個人自身の〈宣言〉つまり〈自覚〉以上に、他者からの〈宣告〉すなわち〈認証〉に拠るところが大きい。ある個人は、実は、事実としては他者からの〈認証〉の如何に関わらず、自ら〈自覚〉することで、十分に存在しているにもかかわらず、その〈自覚〉そのものは、他者からの〈認証〉を要求する、という図式を常に描く。しかし、そうはいうものの、そもそものはじまりは、その存在する個人にある。つまり、存在に対する〈自覚〉と〈認証〉の、互いに指し示しあう循環ベクトルの出発点は常に〈自覚〉の側にあるということだ。いや、〈自覚する個体の側〉と言った方がより正確だろう。なぜなら、いかなる個人も、その物質としての存在は、すべての〈自覚〉〈認証〉に先立って、既にあるからだ。
にもかかわらず、ソラリスにおいて、蘇ったハリーの存在は、〈認証〉する側であるクリスの願望が出発点になっている。そもそも存在しないはずのモノを、〈認証〉する側が先に〈認証〉することで、自覚する側はその〈認証〉の後に、自身の存在を〈自覚〉することになる。
そして、更に面倒なことに、この蘇ったハリーは、実は、全くクリスの知識、記憶、願望、予測に則って、その〈個性〉〈人格〉を形成しているのだ。ソラリスで蘇ったハリーを、霊界(異界)から魂が戻ってきたのだ、と言う捉え方をしなければ、それは、全く、〈創造主〉であるクリスの記憶、心のコピーでしかない。にもかかわらず、劇中、ハリーは、自分が本当は何者なのかと苦悩し、ついには、クリスの前から姿を消す(置き手紙を残して)。この、ハリーの苦悩と消滅に、我々は、ハリーの、存在としての自立性、独自性を見がちだ。もともとはクリスの願望の元に再生された〈紛い物〉であったハリーが、ある契機を境に、一つの独立した〈心〉を持つ存在になったかのように錯覚する。
だが、そうではない。それは、ハリーを蘇らせたクリス自身の苦悩であり、葛藤なのだ。
であるから、クリスが夢で、自分の母親と再会し会話したあとで、ハリーは消滅するのだ。クリスの〈執着〉が、ハリー(妻、恋人)から、それ以前の〈母親〉へと深度を増したことで、言ってみれば、クリスにとって、ハリーの存在が、急にふわりと浮き上がってしまい、消え去ってしまうのだ。

物語の最後に、ソラリスによって再現されるのが、現に今存在するクリスの実家であり、健在の父親だという点も見逃せない。自分のせいで自殺させてしまったハリー(妻、恋人)でもなく、ずいぶん以前に亡くなったらしい(夢の中でクリス自身よりも若く見える)母親でもなく、確かに存在し、身も心も安まる実家と、よき理解者である父親が、最後にはソラリスによって再現され、クリスはついにそこに安らぎを見出す。
このラストが意味するのは、〈心が見ている世界〉と〈事実としての世界〉の、微妙な妥協だ。心は(だから人間は)、その、二つの世界の妥協点の周辺で、微妙なバランスを保ちながら生き続けているのだ。

2002.11.16

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