映画「シベリア超特急」について
【注意】最初に断っておくが、私は『シベリア超特急』と言う作品が気に入っている。だから、それを作った水野晴郎という人も気に入っている。パート3はまだ観てないが、必ず観るだろう。ただしレンタルで。以下に書かれた文章とは矛盾するようだが、人間には様々な面があるということだ。
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水野晴郎の『シベリア超特急』を見終わったあとに残る、なんとも奇妙に落ち着かないこの感覚。その正体を見極めなくてはならない。
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この作品が、いわゆる映像作品(映画)の基準からすると、批評以前の代物であるにも関わらず、我々はこの作品から、なんとも言えない「後を引く何か」を感じる。演技のお粗末さ、セットのお粗末さ、展開のお粗末さに、我々は最初、腹を抱えて笑う。だが、そのうち、怖れに近い、一種の戸惑いのようなもの、あるいは不安を抱くようになる。どうみても全然ダメじゃないかと感じていながら、同時に、これはこれで結構興味深い作品だな、と、どこかで感じる自分に気付くからだ。それは単に、ダメなモノをバカにして面白がるそれとは、ほんの少しだが、違う気がする。我々が優れた作品と出会ったときにその作品に対して持つ印象深さと、『シベリア超特急』に対したときの「印象深さ」は、その根本がおそらく全く違う筈であり、そうでなければ、我々が持っている、映像作品に対する評価基準や美意識といったものは、全て単なる勘違いや思い込みと言うことになる。我々を戸惑わせるのは、『シベリア超特急』が評価に値する映像作品としてのある水準に達していないのははっきりと〈分かる〉のに、つまらないとか、退屈だとか決して思えないばかりか、むしろ惹きつけられる点にある。我々は稀代の駄作『シベリア超特急』の何に惹きつけられるのか? 迫真性。我々が、ある映像作品を評価するとき、最終的に行きつくのはそこだ。映像、物語展開、人物が、その作品世界の中で迫真性を持てば持つほど、我々のその作品に対する評価は高まるはずだ。その作品が事実に基づいているか、荒唐無稽な作り話かは関係ない。ある映像作品が上映されている間、そこに現れる映像、物語展開、人物が、充分な迫真性を備えていれば、あるいは、我々に迫真性を感じさせることが出来れば、我々の心は映像作品によって生み出された虚構の世界を一時的にせよ〈現実〉として受け入れる。我々の〈意識〉は、それを映画という虚構と充分認識していながら、我々の〈心〉は、それを今現実にそこで起きていることとして捉えるのだ。優れた映像作品とは常に必ずそうだ。〈心〉が、虚構であるはずの映像世界を〈現実〉として〈体験〉するのだ。エンターテイメントに徹した作品であろうと、重厚なストーリーを語る作品であろうと、俳優(の演技)を見せる作品であろうと、そのことに変わりはない。
だが、この『シベリア超特急』について言えば、映画を構成する個々の要素にも全く見るべきものはないし、作品全体の完成度もひどくお粗末だ。要するに、箸にも棒にもかからない代物なのだ。つまり、どこにも迫真性がない。映像的には、バラエティ番組のコント並みだし、ストーリーも人物も、出来の悪い童話以下だ。(もちろん、作品中にわずかに登場する優れた俳優の演技は、それなりのものを見せてはいるが、それはちょうど、ギターだけが上手い素人バンドの演奏を聴いているようなもので、観客の側はそのアンバランスさに、苦笑するだけだ) 要するに子供だましもいいところだ。にもかかわらず、我々は『シベリア超特急』を観たあと、心のどこかで「もう一度くらいなら見てもいいかな」と感じているし、かなり強く、まだ観てない誰かに観るように勧めたいと思ってしまう。この感じ方は、奇妙であやふやなので、我ながら確信がもてないのだが、ある割合の観客の心に間違いなく生じるものらしいことは、この作品がシリーズ化され、続いていることからも分かる。
何かがあるのだ。
(ここまで書いてきて、少しも核心に迫ってないような気がする)
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『シベリア超特急』は、難解とされる映像作品とは、別種の難解さを持っている。実際、作品の内容自体には、難解さなど微塵もない。何が難解なのかと言えば、こんなどうしようもない作品を見せられた我々観客が、この作品に対して、不満や憤りよりも、むしろ、奇妙な〈興味深さ〉を抱いてしまう、その点にある。この作品の〈魅力〉は、ちょうど、あまりに不味すぎて、腹が立つどころか、もう一度食べてみたい(もう一度食べてみてもやっぱり不味いなのだが)料理の持つ〈魅力〉に通じる。こういった「明らかにダメなモノ」に接した我々が、そのダメさ加減にも関わらず、それを面白がり、悪感情を持たずにいられるのは、我々の関心が、ダメな作品にではなく、そんなダメな作品を作り出した作り手に向けられるからに他ならない。
料理人の喩えを続けてみる。とても食えたものじゃない料理を作り出す料理人は、まずい料理を作るつもりでその料理を作ったわけではない。彼は、美味い料理を目指し、精一杯努力し、自分でも「よし」と判断したからこそ、それを客に出すのだ。しかし、それが、とてつもなく不味い。個人の味覚の差など超越した不味さなのだ。そんな料理を食べさせられた我々の関心は、料理ではなく、間違いなく、それを作った料理人の方に向けられる。最初はさじ加減でも間違えたかと勘ぐるだろう。そして不愉快になる。しかしそうでないと分かったとき、我々の関心は、一気に料理人自身に向けられる。と同時に料理に感じていた不愉快さが消し飛ぶ。「こんなまずい料理を大真面目に作る人間とはいったいどんなヤツなんだ?!」と。不味い料理は、それを作る料理人が、美味いものを作ろうと真剣に取り組むほど、その衝撃度を増す。ただ、不味いだけではダメだ。最初から不味いものを作りたいのなら、鍋に重油でも流し込めばそれでいい。そうではなく、この上なく美味いものを作ろうとし、またそれが達成されたつもりが、恐ろしく不味かった! そこが重要だ。
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失敗ではなく成功だと作り手が確信している作品が、どこからみてもまるでダメなとき、そのダメな作品を、ウマくできた、成功だと見なす作り手そのものが、我々にとって、非常に興味深い対象となる。なぜなら、そんな作り手は、明らかに我々とは全く違う価値観、美意識、いや、もっと言えば〈世界〉を持っているに違いないからだ。人間は、自身に切迫するような危険がおよばない限り、異質なモノに興味を抱き、面白がる存在だ。我々が、水野晴郎の『シベリア超特急』に、奇妙な魅力を感じるのは、出来上がった作品そのものではなく、それを作り出した水野晴郎という人間の異質さ、奇妙さ、不思議さを強く感じ取っているからだ。しかも、水野晴郎は、こともあろうかベテランの映画評論家である。我々は否が応でもこう思わずにはいられない。『シベリア超特急』のような映画以前の代物を作り上げ、堂々と公開する映画評論家の、その映画に対する基準、映画観とは一体どのようなものなのだろうか?
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『シベリア超特急』に接すると、水野晴郎が何をやりたかったのか、やろうとしたのかが、非常によく分かる。そして、大変一生懸命、真面目に取り組んでいることも。仮に『シベリア超特急』を評価するとしたら、作者の、この〈一生懸命さ〉〈真面目さ〉しかない。『シベリア超特急』からは、水野晴郎の映画製作に対する〈熱意〉がとてもよく伝わってくる。が、残念ながら、その〈熱意〉は、ものの見事に空回りしているのだ。ひどく拙い模写があって、とても絵画と呼べる代物ではないが、それがどんな名画を模写しようとしたのかはよく分かるし、精一杯真似ようとした(あるいは、オリジナルを超えようとまでした?)ことも非常によく伝わる。『シベリア超特急』とは、まさにそういう作品だ。問題は、というか、不気味なのは、水野晴郎のその〈一生懸命さ〉〈真面目さ〉が、この映画の中に、現実感(迫真性)のかけらもない世界を生み出している点にある。この現実感のなさは、いわゆるシュールレアリスムのそれとは違う。シュールレアリスムは、超現実と訳されるとおり、現実には有り得ない不条理世界を、観る者に〈現実〉として体験させるモノだ。だが『シベリア超特急』はそうではない。敢えて言うなら〈現実未満〉だ。水野晴郎がこの作品を冗談のつもりでいい加減に作ったというのなら、我々はまだ救われる。だが、実際はそうではない、ということが、作品を見れば分かる。この作品は、大変真面目に、よいモノを楽しいモノを作ろうとした結果なのだ。そして、今までの映画の文法を破る新機軸を打ち出そうとしたものでもないことも分かる。『シベリア超特急』は〈正統派〉エンターテイメント映画を目指して作られている。だから、水野晴郎にとって、この映画以前の代物『シベリア超特急』は、傑作ではないにしても、自分の名を冠して世の中に出せるくらいのまずまずの出来の、そして、あくまでも正統派エンターテイメント作品なのだ。だが、我々観客が、この作品に接するときに感じる〈面白さ〉は、水野晴郎が意図したものとは全く関係がない。水野晴郎が観客に提示しようとした〈面白さ〉は、少しも体を成していないので、我々はそれを楽しむことは出来ない。
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『シベリア超特急』は、我々に、ある残酷なメッセージを伝えている。すなわち「映画評論家水野晴郎には、映画を深く感じ取り、理解する(あるいは解釈する)能力がない」と。映画評論家水野晴郎の映画に対する〈感応力〉は、実は、採点機能付きのカラオケマシン並だということを、『シベリア超特急』は教えてくれる。声はよく出ているか、音程は外れていないかをまさに機械的に計るだけのカラオケマシンが、歌を少しも〈理解〉できていないのは、機械ではなく人間である我々なら誰でも知っている。歌は、心と身体から発せられる。だから、それを受け取る側にも、心と身体がなければ、歌は歌として「体験」されない。機械は、歌をただ、音声として〈分析〉するだけだ。太陽の光を「ぬくもり」と感じるのは心と身体だ。機械は、それをただ、ある値の温度として受け取るだけだ。『シベリア超特急』を見る限り、映画評論家水野晴郎には、映画の、つまりは人間や世界の「奥深さ」を見通す力がないと言わざるを得ない。彼に見えるのは、表層の派手さや意外さだけだ。彼は、ある映画世界が、なぜ、そういう展開になったのかを深く洞察することができない。その登場人物は、なぜそういう選択をしたのか、なぜそのように行動せざるを得なかったのかを、人間の深い内面から見通すことが出来ない。全く出来ないとは言わないが、その洞察力は幼児レベルだ。映画評論家という職業柄、彼の頭には様々な映画の場面や展開がストックされているのだろうが、そうした場面や展開の奥にある、登場人物(人間)の心を見通せていないので、いざ自分が映画を撮ろうとしたときに、ただ、表面的にそうした場面を真似ることしかできない。なぜそうなるのかが分からないまま、ただ、見えたままを真似るので、(『シベリア超特急』の)登場人物達は誰も彼も、訳も分からず動き回る夢遊病者か、ロボットのようになってしまう。「以前観た映画では、こういう場面で女の人は泣いていた。だから、ここで女は泣く」とか、「以前観た映画では、こういう展開のあとにこういう展開があった。今回は、その裏をかこう」とか。『シベリア超特急』を観れば、万事がこんな調子で作り上げられているのがよく分かる。『シベリア超特急』に描き出される世界は、どんな場面も、どんな展開も、それぞれに心を持った登場人物達の様々な思惑や、動機が錯綜して生み出したものではない。登場人物達は、ただ、あらかじめ用意された場面に合わせて怒ったり泣いたり喋ったりするだけのロボットだ。我々は、すぐにそれに気付く。だからこそ、この作品がどうしようもない駄作だと一発で悟れる。なぜなら観る者の心を「本気」にさせるモノがこの作品には全くないからだ。それはそうだろう。そもそも作品中の登場人物に心がないのだ。我々が架空の人間を〈リアル〉な人間と感じるのは、そこに、我々と同じような心を見るからだ。だが、作者である水野晴郎には、それが分からない。なぜ分からないのかといえば、何度も言うように、彼には、人間に対する洞察というものが決定的(致命的?)に欠けているからだ。少なくとも、彼の『シベリア超特急』はそう言っている。
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では、我々は『シベリア超特急』の何に惹きつけられているのか?
答えはこうだ。
我々は、『シベリア超特急』の中で繰り広げられる、心のない〈人形〉達の見せかけの物語を通じて、これを作った水野晴郎という人間の、非常に空疎で貧弱な内面世界を垣間見る。深みもなければ、軽妙さもない、およそ芸術とはほど遠い、政治家の国会答弁だけで出来たようなつまらない世界だ。我々は、その異様さに惹きつけられているのだ。なぜなら、こういうタイプの人間が作った作品は、滅多に一般の我々の目に触れることがなく、異様であると同時に、ある意味、新鮮だからだ。遠慮なしに書けば、『シベリア超特急』は、精神医学系の書物に紹介される、あるタイプの患者達の手による絵や文章に通じるものがある。あの、一目見ただけで、ただならぬ異様さや奇妙な欠落感を感じずにはいられない心の「空隙」を持った者達の絵や文章に。そのような「タイプ」の人間の「作品」は、二つの理由で殆ど目にすることが出来ない。まず、そもそも当人が作ろうとはしない。たいていの場合、表現しようという内面の強い欲求が欠けているからだ。そして、仮に作ったとしても、周りからの評価(共感)を得られず日の目を見ない。だが、水野晴郎の場合、当人がベテラン映画評論家であるという環境と情況が『シベリア超特急』を可能にした。もちろん私は、水野晴郎のような内的世界を持った人間が全てに劣っていると言っているのではない。作品を作り発表するなどと言うことには無理があると言っているだけだ。
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【余計な一言】
『シベリア超特急』の存在は、映画評論家水野晴郎にとって自殺的だ。あらゆる表現は表現者の内的世界の投影であり、真実である。『シベリア超特急』から我々が受けとるのは、空疎で浅はかな、キレも深みもない〈世界〉だ。翻訳ソフトが訳した文章のような〈世界〉だ。だが、それは単に、彼に十人並みの映画を撮る才能すらなかっただけのことで、大した問題ではない。評論家が優れた作品を生み出せなくても、とりあえず問題はないからだ。問題は『シベリア超特急』の出来そのものではない。映画評論家水野晴郎にとって自殺的なのは、こんなお粗末な代物を、当人は、まんざらでもない出来だと認識し公開までした、その点にある。『シベリア超特急』を自身の名を冠して公開したことで、映画評論家水野晴郎は、自身が映画評論家として全く無能であることを大々的に公表してしまうこととなった。この人は、これまで一体、映画の何を見てきたのか?!
2003.04.15
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