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『SAW』と『SAW2』を観た。
(以下の文章には作品のネタばれが含まれます。ご注意下さい。)
【「SAW」について】
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この作品が、結局子供騙し的な印象しか観客に残せないのは、(作者の意図がどうであったにせよ)犯人の心的レベルが〈子供〉だからだ。そして、こんな心的に幼稚な犯人を物語の中心に据えてしまって平気な顔をしていられるのは、この作品の作者の心的レベルがやはり子供だからに他ならない。あんな幼稚な犯行動機を聞かされれば、まともな大人はみんないっぺんに白けてしまうということに気付かないのか? まともな大人を最後までゾッとさせる殺人鬼は、自分については何も語らず黙って立ち去るものだ。人間を根源で震え上がらせる殺人は、哲学、思想には根ざしていない。逆だ。本来的には何の意味も根拠もない殺人がまずあり、哲学や思想はそのあとにやって来る、そういう殺人だ。人間は、まず殺す。そして、そのあとに考える。その行動原理に忠実な殺人鬼だけが、大の大人をケツの穴まで縮み上がらせる。そこに、人間が本来的に持っている〈狂気〉をかいま見るからだ。ところが、この作品の犯人の動機は、要するにただの〈妬み〉だ。妬みがまずあり、それに理由をこじつけて、だから殺す(殺されてしまう所まで被害者を追いつめる)という順番だ。こんなものは、俺たち人間が根源的にもっている〈狂気〉からはもっとも遠い場所にある浅瀬の感情だ。妬みが行動原理の人間なんか、ただ、鬱陶しいだけだ。
犯人が幼稚な動機を明らかにしてしまったことで、この作品は一気に茶番化したといってもいい。
作者が「この作品では未熟な精神の恐さを表現したのだ」と言えれば、この作品は一応意図したものは表現できたと言える気がするのだが、実際に観てみると明らかにそうではない。この作品の作者は、その描き方から、犯人を、我々のような凡庸な人間の更に先に行ってしまった、一種の超人(例えば『羊たちの沈黙』のレクター博士のような悪の超人)のように捉えていることが分かるからだ。だが、もし実際にこの作品のような動機をもった犯人が存在し、その犯行に巻き込まれたり、悩まされたりしたとき、我々はどう感じるだろう? 我々が犯人の動機がまったく分からない情況であれば、そういう〈悪の超人〉に対峙した時のような恐怖を感じるだろう。だが、一旦その幼稚な動機を知ってしまえば、恐怖よりも、バカに付きまとわれたときの煩わしさや鬱陶しさを感じるはずだ。それは、中途半端に頭のいい子供のおもりをさせられている時の、煩わしさや鬱陶しさと同じものだし、サリン事件を引き起こしたオウムや、繰り返し戦争を起こすアメリカ政府や、中東や中央アジアのテロリストの言い分を聞いているときの気分と同じものだ。この作品の作者は、ラストの種明かしで、犯人の冷徹さや頭の良さや行動力を際立たせようと、犯人に動機説明をさせたのかもしれないが、俺達には、かえってそれで、この犯人がただのバカな子供に思えてしまった。
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人形のような登場人物たちや、こじつけのようなストーリー展開からして、そもそも、この作品は、「ある日突然、過酷な生き残りゲームの中に放り込まれた人間たちのジタバタする様を描きたい」というそれだけから始まっているはずだ。それ自体はいい。表現のモチーフはなんだっていいのだから。問題は、そのシンプルなモチーフに、無理に〈意味〉を上塗りしようとしたことだ。モチーフに正直になれば、作者にとって、その生き残りゲームをしかけた犯人の正体など、本当はどうでもいい。まして、犯行の動機など、なんだってよかったはずだ。なんだっていいということは、なくてもよかったということだ。それを、映画産業的事情か何かは知らないが、具体的な犯人像や犯行の動機を無理にひねり出してしまったせいで、あんな安手の漫画の登場人物みたいな薄っぺらい殺人鬼が出来上がってしまったのではないか? とにかく、この作品は、犯人の薄っぺらさに閉口した。
「CUBE」のシュールさも、「セブン」の徹底的にイカレタ犯罪者像も、「メメント」の必然ゆえの映画的斬新さも、この「SAW」の中にはなにもない。あるのは、受け狙いの残虐趣味と、深読み好きの推理パズルファンを喜ばせる、舌足らず故の「謎」ばかりだ。この謎は、例えばリンチ作品の「謎」とは別種のもので、例を挙げれば、『ブレードランナー』の「6人目のレプリカント」の「謎」や「二つで十分ですよ」というセリフの「謎」に近い。つまり、作者が敢えて語らないという立場を取ることによって意図的に生まれた謎ではなく、映画製作上のドタバタの中で意図せず生まれた不整合や説明不足に過ぎない。
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一人の人間が、その人生を、どう生きようと、それはその人間の自由だ。自由と言うとどこか開放的でなんの束縛もないもののように聞こえるが、こと人生についていえば、そうではない。人の一生、生き方は、どんなに自由であろうとしても、必ず束縛や制約を受ける。経済的、肉体的、時代的等々の束縛だ。人生は、自由であるべきだが、文字どおりの自由というほどの自由は誰の人生にもない。人生はいつも、振り返ってみればそうなってしまっているものだ。だから、気が付けば聖人のような生活を送る人間もいるし、逆に堕落しきった生活を送る人間もいる。だが、それを他人が力ずくどうこうしようとするのは、完全に間違っている。人間は、生きていくうちに様々な選択をする。いわゆる人生の分かれ道で、〈正しい選択〉をしたり、〈誤った選択〉をしたりしながら生きて行く。だが、正しい選択をして堕落することもあれば、誤った選択をしてうっかり高みに立つこともある。人生の進み方の正誤など、所詮その程度の意味しかない。だからこそ、すべての人間は自分自身の人生において自由であるべきなのだ。他人が意図的に干渉して、死ぬか生きるかの状態にまで追い込み、〈正しい〉生き方を迫ることなど、絶対にあってはならない。
■■ジグソウの生き残りゲーム■■
このジグソウの〈ゲーム〉には、作品中に未明な部分が多すぎる。だから、大部分は、俺の勝手な想像だ。見落としや記憶違いもあるだろうが、そんなこと知ったこっちゃない。
■まず、どうでもいいが気になったこと■
ゴードンが、6時までにアダムを殺した場合、ジグソウは、作品中でアダムに鍵の在り処を教えたように、ゴードンにも鍵の在り処を教えただろうか? そして、その鍵は、アダムの鎖の鍵と共通のものなのか? それとも別の場所に隠されているのか? 例えば、ジグソウ自身が持っているとか。いや、それとも、実はゴードンの鍵は最初からないのか? 俺としては、ゴードンの鍵も最初に排水口から流されたあの鍵だったという案をとりたい。
考えてみよう。
期限の6時までにゴードンがアダムを毒殺し、ゲームが終了になる。作品中と同じように、死体のふりをしていたジグソウが起き上がり、「鍵はバスタブの中にある」と教えれば、アダムを殺してしまったゴードンは、自分の足を切断する以外鍵を手に入れる方法がないことに気付き、絶望する(鎖に繋がれた状態でバスタブから鍵を取り出せるのはアダムだけだが、アダムは既に殺してしまっている。というか、足を切断してしまえば、もはやゴードンに鍵など必要ない)。人を絶望のふちに追い込むことを生き甲斐にしているジグソウなら、そういう展開を望むだろう。「足を切り落とさずに済むチャンスはあった。それをお前は自らの手で潰してしまったのだ、ははは!」てなもんだ。しかし、あくまでも可能性だ。その辺については作品中では何も描かれていないのだから、本当はどうとでも想像できてしまう。だが、もう少し思いきって想像してみることは可能かもしれない。つまり、アダムをルールどおりに殺したご褒美にジグソウがゴードンを鎖から解放したら? ジグソウはその場でゴードンに襲われるかもしれず、とても危険だ。ジグソウがそんな危険をおかすとは思えない。そういう推論からも、ゴードンの鎖の鍵はアダムの鎖の鍵と共通のものだと考えた方がいいように思う。それとも、鎖に繋がれた状態のゴードンに電気ショックを与えて気絶させ、鍵だけのこしてジグソウは立ち去るのか? それもあるだろう。どうとでも想像できる。ああ、実に不毛だ。ここは素直に、映画のオープニングで象徴的に光漂っていたあの鍵が、二人の監禁者の鎖を外せる鍵だと考えるべきだろう。
■監禁場所の扉は、中からも開け閉めが出来たのか?■
まず、言えることは、中からでも閉めることは出来たということ。そうでなければ、二人の監禁者を運び込んだジグソウが、扉の閉じられた監禁場所の中に一緒にいられるわけがないからだ。ゼップが外から閉めたということはない。彼はゴードンが家を出る前からずっと、ゴードンの家にいる。
では、中から扉を開けることは出来たのか?
ごく普通のシャワールームだと考えれば、中の人間が閉じ込められるようなことはないだろう。そうであれば、二人の監禁者は、とにかく足に繋がれた鎖を外せば、自由に逃げ出せる。
だが、最初に近いシーンで、ゴードンは扉を開けようとしている。鎖に繋がれた状態でも、ゴードンは扉に手が届くからだ。その場面で、実際には引き戸である扉を、ゴードンは押しているようだが、どちらにせよ結局ゴードンは扉は開けられない。それを見ると、扉は内側からは開かないようにも思える。
もし、中からはあけられない扉だとしたら、鎖から解放されても、彼らは更にあの場所から外に出る方法を探さなくてはならない。だが待て。もし鎖から解放された二人が、いつまでも部屋の中にいなければならない情況になれば、脱出のための手がかりを探して、死体のふりをしているジグソウの体なり衣服なりを必ず調べる。ジグソウにとってそれは困る。監禁者のうちの一人は医師だ。ジグソウが本物の死体ではなく、死んだふりをしているだけの生きた人間なのはすぐに見破ってしまうだろう。当然「お前は何者だ?」という話になる。末期癌患者のジグソウが二人の男を相手に立ち回って勝てるとは思えないし、本人も思わないだろう。ということは、足に繋がれた鎖さえ外せば、外に出られるルールだと考えたほうがいい。なにより、もし扉が内側からは開かないのであれば、ジグソウ自身が閉じ込められてしまう危険性がある。遅効性の毒を打たれたゼップは解毒剤欲しさに、かならず、あの場所にやってくることになっているのかもしれない。だが、それはゼップの身に何事も起きなかった場合だ。実際、ゼップはあの監禁場所にたどり着く前に何度かタップ元刑事に殺されかけている。運良くというか、たまたまゼップがその試練を乗り越えたからいいものの、もし、ゼップが監禁場所にたどり着く前に殺されていたら、ジグソウはどうやってあそこから脱出するつもりだったのだろう? 殺されなくても、たまたま交通事故にあったり、毒が早めに効いて死んでしまったりしたら、ジグソウはどうしようもなくなる。実は、ジグソウ自身が普通にかけられる携帯電話を隠し持っていて、それで助けを呼ぶ、ということも考えられるだろうが、では一体ジグソウは誰に助けを求めるのだ? どう考えても、バクチだ。入念に計画を練ったゲームではない。確かに、どうせガンですぐ死ぬんだからと思って観念するのかも知れないけど、どうもジグソウらしくない。
つまり、あの監禁場所のドアは中からもあけることができる。鎖に繋がれた状態のゴードンが扉を開けられなかったのは単に、扉のノブというかそういうものに手が届かなかったからだろう。だから、足の鎖を外しさえすれば、あの監禁場所から脱出できるのだ。それはつまり、裏を返せば、一旦ゲームが始まってしまえば、ちょっとやそっとでは足の鎖は外せないということだ。
では、最初にバスタブの排水口から鍵が流れてしまったのは偶然ではないということか? そうだ。もし、バスタブの鍵が流れてしまわなければ、ジグソウの用意したゲームは一気に不確定要素を増す。最悪、二人の監禁者はゲームの存在にすら気付かないだろう。また、鎖から解放された状態にも関わらず、ゲームに巻き込まれていることを(つまりゴードンの家族が命を奪われそうになっていることを)ゴードンが知ったとしても、ゲームのルールを無視して、監禁場所を逃げ出し、警察に連絡して、家族を守ろうとするかもしれない。なにより、鍵が流されず、二人の監禁者があの監禁場所から出てしまえば、ゼップは二人をモニターすることができず、6時までにゴードンがアダムを殺すというルールが守られたのか、やぶられたのかさえ知るすべがなくなる。とにかく、二人が鎖から解放されてしまえば、ジグソウの目論んだゲームはめちゃくちゃになる。
バスタブの栓の鎖の根元は、最初からバスタブ本体から外れていた。レコーダーを手に入れる時に、アダムは、バスタブの栓の鎖を利用するが、そのときにそれが分かる。バスタブの栓は、アダムがバスタブ本体から引きちぎったのではなく、最初から外れていた。それは、アダムが水中で目を覚まし、暴れたときにそうとは知らずバスタブの栓を抜いてしまうように、外された栓の鎖の反対端が、アダムの足か体のどこかに巻き付けられていたことを意味してる。
結論、最初にあの鍵が排水口から流れてしまうようにジグソウは慎重に仕組んであった。つまり、最初に鍵が流されることは、あのゲームの大前提なのだ。だから、ゲームが「正常」にスタートすれば、鋸(SAW)で自分の足を切断する以外に、監禁者二人があの場所から脱出する方法はない、ということだ。
■最初から決まっているゲームに於ける二人の結末■
アダムの死は、ゲームが開始された時点で確定している。
ゲームはバスタブの中を漂う鍵を流してしまった時点で始まる。ということはつまり、ゲームが始まってしまえば、アダムには、足を切断する以外に鎖を外す方法がないということだ。結局、ゲームが始まった時点で、アダムに残された道は、ゴードンに殺されるか、ゼップ(アダムを殺し損なったゴードンを「ルール」に従って殺しにくるゼップが、その殺人の目撃者であるアダムを生かしておくわけがない)に殺されるか、自分の足をのこぎりで切断して失血死するか(外科医でもないアダムが自分の足をできるだけダメージ少なく切断したり、効果的な止血術を施したりできるとは到底思えない。足を切断すれば、アダムはゴードンよりずっと早く簡単に失血死するだろう)、監禁状態のまま餓死するかだ。いずれにせよ、外部から第三者が助けに来ない限り、アダムは死ぬ。
アダムにとって、最良の展開は、水中で目覚めたとき、暗闇で光っている鍵に素早く気付き、それが排水口から流れてしまう前に手に入れ、何事もなかったかのように足の鎖を外して、脱出するというものだ。つまり、ゲームを始めさせないこと。これがアダムにとって最良にして唯一の生き残るための道だ。
そもそもの話、アダムは、たばこや鋸といったものと同じの、ゲームの道具でしかない。彼はプレイヤーではないのだ。ゲームをプレイし、それに勝利するチャンスが与えられているのはゴードンだけだ。あの監禁場所で繰り広げられる全ては、ゴードンがうまくアダムや他のアイテムを利用して、ゲームに勝利できるかどうかが試されているのだ。
では、そのゴードンについてはどうか?
ゴードン(医師)の死は、ゲームが開始された時点で確定している。
仮にアダムが非常にうかつな男で、バスタブの中に鍵が残っているにもかかわらず、それに気付かないままゲームが始まったとしよう。ゴードンがバスタブの中に鍵が入っていることにアダムより先に気付いたとしても、ゴードンがアダムより先にバスタブの中の鍵を使って自由になる確率は極めて低い。なぜなら、二人ともが鎖に繋がれた状態でバスタブの中の鍵を取れるのはアダムだけだからだ。先に鍵を手に入れるのは必ずアダムで、鍵を手に入れたアダムは、まずまちがいなく先に自分の鎖を外す。そうなれば、ゴードンがアダムを殺せる確率は極端に下がる。最悪、アダムはゴードンを置いて逃げてしまうかもしれない。なにしろ、ゴードンは家族を守るために、アダムを殺そうとするかもしれないのだ。かと言って、ゴードンが鎖の鍵を手に入れる前に、たばこの毒でアダムを殺してしまうと、足の切断以外に鎖から逃れる方法がなくなる。繰り返すが、二人ともが鎖に繋がれた状態では、アダムだけがバスタブから鍵を手に入れることができるからだ。つまり、鎖の鍵を手に入れるためには、アダムは生かしておかなければならないが、そうなると、結局アダムを殺し損なう確率が高くなり、だからと言って先にアダムを殺せば、今度は自分の足を切断する以外の脱出方法がなくなる。ゴードンが自分の家族と自分自身の命を守り、なおかつ、監禁場所から無傷で脱出するには、アダムに鍵を拾わせて、それを受け取ったあとで、モニターされているあの場所で、時間までにアダムを毒殺するしかない。しかしそれを実現するための条件は、ほとんど不可能なほど厳しい。
(1)バスタブの鍵が流されずに残っていて、
(2)はじめはそのことにアダムが気付いておらず、
(3)ゲームのルールを知ったあとで、
(4)すぐにその場から家族を助けに向かったりせずに(その場に留まり)
(5)たばこと弾丸と鎖の鍵を見つけだし、
(6)ゴードン自身が足の鎖の鍵を手にしたあとで、
(7)モニターされている監禁場所で、
(8)6時までにアダムを騙して毒入りタバコで毒殺する。
作品では、ジグソウの目論み通り鍵は排水口に流れてしまっている。つまり、ゴードンはどうあっても自分の足を切断するしかない。アダム同様、ゴードンも助かる可能性は限りなくゼロだ。たとえ時間までにアダムを毒殺できたとしても、彼には監禁場所から脱出する方法が、足の切断以外ないからだ。足を切断したゴードンが助かる確率は、彼の外科医としての止血術と、体力と、治療可能場所までの距離次第だが、ゴードンが外科医だということをゲームを仕掛けたジグソウは百も承知なのだから、応急の止血処置をした程度の片足の男が、失血死するまえに治療可能な場所まで簡単にたどり着ける距離に監禁場所を選ぶとは到底思えない。実際、作品でも、建物そのものから出るだけでかなりの距離があることが描かれている。
■ゲームの勝利条件■
ということはこのゲームは、いわゆる出来レースなのか?
いや、そうではない。時間までにアダムを毒殺できれば、ゴードンは自分の家族だけは助けることができる。ここがポイントだ。アダムにとってもゴードンにとっても、このゲームに於ける彼ら自身の結末は、最初にバスタブの中の鍵が流されてしまった時に決まっている。ただし、それでもプレイヤーであるゴードンだけはこのゲームに勝利することができる。ゴードンが、このゲームでの勝利条件に気付きさえすれば、ゴードンはゲームに「勝つ」ことができるのだ。つまり、こうだ。このジグソウのゲームで、生き残れるかどうかが選べるのは、アダムでもゴードンでもない(見てきたように、ゲームが始まってしまえば、二人の死はほぼ確定するのだ)。ジグソウの用意したこのゲームのプレイヤーは確かにゴードンだが、彼が彼自身の運命をこのゲームでどうにかすることはできない。ゴードンが彼自身を救えるかどうかではなく、彼の家族(妻と娘)を救えるかどうかが、ジグソウが用意したこのゲームの意図なのだ。そのことに気付きさえすれば、このゲームで彼がやるべきこと、できることは、非常にシンプルになる。つまり、ゴードンは、毒入りたばこを6時までにアダムに吸わせればいいいのだ。それ以外のこと(自分が助かろうとか、アダムを助けようとか、家族の危機を警察に知らせようとか)は、何をやっても、単なる時間の浪費だ。ゴードンがいつの段階でそのことに気付けるかが、(ジグソウにとっての)このゲームの見どころなのだ。
■ゼップの周辺■
このゲームにはもう一人のプレイヤーがいる。アダムではない。さっきも書いたがアダムは、ゴードンの道具に過ぎない。そのもう一人のプレイヤーとはゼップだ。ただ、ここが最大の疑問であり、謎なのだが、ジグソウはどうやって、ゼップに信じさせたのか? つまりゼップの体が遅効性の毒に冒されているということを。ゼップがジグゾウの言っていることを信じて、必ずこのゲームに参加するという確信を、ジグソウはどうやって得たのか? 3人の人間を殺すように命ぜられ、実際そうしようとしたゼップは、自分の体が現実にジグソウの言う「ゆっくり効いてくる毒」に冒されていて、なおかつその解毒剤はジグソウしか持っていないと、信じていなければならない。しかし、ただテープの声がそう言ってるというだけで、人を殺してもいいというところまで信じるだろうか? それとも、遅効性の毒とはいえ、ゼップにはなんらかの自覚症状があったのだろうか? 描かれてはいないが、ゼップの体が確かに遅効性の毒に冒されていることを、ジグソウはなんらかの方法で証明してみせたのだろうか? 仮にそうだとしても、その「解毒剤」をもっているのがジグソウだけだと、どうやって信じさせたのだろう? 拘束状態のアダムやゴードンはその行動が事前に予測しやすい。だから彼らについてのゲームの組み立ては容易だろう。だが、その気になればジグソウの言うことなど無視して自由に行動できるゼップにゲームの重要な役割を担わせているジグソウは、どこか間が抜けている。詰めの甘さのようなものを感じる。少なくとも、自分がその毒で7時間以上(二人の監禁者が目覚めたとき、タイムリミットまで7時間半ある)は死なないことをゼップは前もって知っているはずで、そうでなければ、悠長にアダムとゴードンの様子をモニタリングなんかしていない。ならば、罪もない人間を殺すゲームに参加する前に、普通は病院なりなんなりに駆け込みはしないか? それとも、もうそういうことはやってみたが、駄目だったのか? 実は、ずいぶん以前から、ゼップはジグソウの毒の支配下にあって、アダムとゴードンが巻き込まれる以前の事件でも、解毒剤目当てに手下として働いていたのか?
と、まあ、想像しはじめるとキリがなくなるのがこの作品だ。こうやっていくらでも想像できてしまうところが、この作品が詰めの甘い子供騙しにしかなりきれていないなによりの証拠だ。最後のどんでん返しや巧妙な謎をうたい文句にしているわりに、この作品の完成度は低すぎる。
ゼップの設定について言いたいのは、「お前に毒を盛った。解毒剤は俺が持ってる。解毒剤が欲しければ俺の言うことを聞け」なんていうのは、共犯理由としては、少年ジャンプレベルのシロモノで、そんなものが、人が殺人に手を染める理由になりうる考える、その未熟な発想が、俺にはイタダケないということだ。これはジグソウの問題ではなく、作者の問題だ。こういうところにも、この映画の作者の「頭はキレるが、底が浅くて幼稚な面」が出ている。言ってしまえば、ゼップというキャラクターは、最後のどんでん返しのために設えられた、犯人ではないのに犯人と同じように犯罪の加担に積極的な、観客をハメるためだけの人間で、つまり、役柄がまずあり、そのあとになぜそういうことをしてしまうのかと考えた作者が無理矢理理由を押し付けた、作者にとっての〈マリオネット〉なのだ。ゼップは一見気の毒な被害者のように映るし、作者もそのつもりなのだろうが、よくよく考えてみると、共犯の動機が薄弱で、とって付けたようなウソっぽさにまみれた〈人形〉でしかないから、俺達は「なんだよ、こいつ」ということになる。ストーリーを展開する上で、都合のいいように作られたキャラクターでしかないじゃないか、と。また、それは、犯人ジグソウのキャラクター造形についても言えることで、なんにしろ、この作品に登場するキャラクターは誰も彼も上っ面ばかり取り繕った、ハリボテなのだ。
俺がこの作品で唯一感心したのは、ダイアナ(娘)役のあの子の演技だ。拳銃に怯え泣き叫ぶ演技はかなり真に迫っていて、大したもんだった。
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【『SAW2』について】
こっちは、『SAW』に比べると、かなりシンプルだ。小細工というよりも、大仕掛けで観客をあっと言わせてやろうと考えたんだろう。だから、くどくど書くことはあまりない。
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刑事達が、ジグソウのアジトでモニター越しに見ていた〈事件〉は実は〈リアルタイム〉ではなく、録画テープの再生でしかなかった、というところが今作のポイント。監禁ゲームで逃げまどう刑事の息子と、息子を助けようと現場に踏み込んだ刑事が同時刻にいるかのように錯覚させる編集で、観客を惑わせる。刑事達がジグソウのアジトに踏み込んだときには、すでに8人が監禁された〈ゲーム〉は終了していて、息子は無事に〈ゲーム〉生き延び、それ以降ずっとアジトの金庫の中にいたわけだ。つまり、録画テープに騙されて、今まさに自分の息子が危機に瀕していると思いこんだりせず、おとなしくジグソウの話を聞きながら2時間が過ぎるのを待ってさえいれば、刑事はそれ以上のトラブルに巻き込まれず、ジグソウの言うとおり無事息子と再会できたわけだ。つまり、刑事に仕掛けられた〈ゲーム〉に勝つことが出来たのだ。
今回のジグソウ(と二代目ジグソウ)のゲームの勘所は、プレイヤーである刑事が〈ルール〉に従って、おとなしくいていられるかどうか、と言う点だ。結果は、ジグソウ達が見込んだ通り、刑事は自らを敗者にしてしまう行動に出て〈ゲームオーバー〉となる。8人が監禁された最初の〈ゲーム〉は、その当事者である8人にとっての〈ゲーム〉ではあるが、それよりも、あとで刑事を試す〈ゲーム〉の為の〈仕掛け〉(罠)として用意されたものという色合いが濃い。観客である俺達は、8人が〈プレイヤー〉となった監禁のゲームを見ながら、同時に刑事自身が〈プレイヤー〉となっている〈ゲーム〉を、そうとは知らないまま見せられていたことに最後に気付いて、なるほどと膝を打つ。要するに、今回の作品で、メインとなる〈ゲーム〉は、8人が監禁されたそれではなく、自分が〈プレイヤー〉であることにさえ気付いてない刑事が巻き込まれた〈ゲーム〉の方なのだ。
■感想■
しかし、まあ、『SAW』も『SAW2』もただのパズルだよ。映像作品としてどうとかいうシロモノじゃなくて、「推理パズル!名探偵からの挑戦状」みたいな本と同じ。〈殺害〉方法がえげつないから、そのへんで、なんか〈スゴイ〉印象があるけど、そんなものは「ジェイソン」とおなじだ。目に見えるものはどんなものであれ慣れる。映像作品だろうとなんだろうと、見えないものを描いてこそ、だ。その意味でいえば、この二作品には〈何もない〉。
(アナトー)2006.07.11
© Annatto Shiquiso
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