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今さらだが、メル・ギブソンが撮った「パッション」というイエス・キリストの映画を観た。公開当時、イエスに対する残虐行為の過激さや、ナントカ教が上映禁止を訴えたとかで話題になった映画だ。
この映画の、イエスに対する過剰なまでの残虐行為は、一部の「熱心な」キリスト教信者の中にある「イエスの身に現実に起きたであろう出来事」なのだろう。ただ、この「イエスに対する過剰な虐待行為」に、それほどの根拠はないように思う。マタイやマルコといった聖書の語り手たちは、イエスが命に関わるほどの虐待を受けたとはどこにも書いていないからだ。確かにイエスは、捕まった後、平手や拳で殴られ、つばを吐きかけられ、棒で小突かれ、むち打たれ、磔になっている。しかし、最後の磔は別にしても、そうした暴力がイエスの命を脅かすほど過酷であったかどうかは、聖書の描写からは一切分からない。もちろん、だからと言って、イエスに過酷な虐待が加えられなかったとも書いてないわけで、そこに「熱心な」キリスト教徒の「願望」が入り込む余地があり、この映画も、そうした「願望」によって作り上げられたと言える。
つまりこういうことだ。自分自身を殺そうとした(そして実際に殺した)人間(敵意を持った「隣人」)の為にさえ祈ることができたイエスを、より超人化(神格化)したい願望を持つ一部の偏執的なキリスト教信者にとって、イエスを死に追い込んだ当事者達のイエスに対する仕打ちが過酷であればあるほど「良い」のだ。キリスト教信者の中でも、度の過ぎた偏った部類に属する信者たちにとって、この映画のような過酷な虐待は、まさに「イメージ通り」で、そこに一種、言い知れぬカタルシスを覚えているのではないか。俺には、そう思えて仕方がない。
だが、これはどうにもいただけない。イエスに対する過酷な虐待のイメージは、根拠のない、信者の「願望」でしかないからだ。もし、本当にイエスに対して、この映画にあるような惨い虐待があったのなら、なぜ、聖書の語り手たちはそのことを具体的に描写しなかったのか? 少なくとも、筆舌に尽くしがたい肉体的な虐待がイエスに対してなされたくらいのことは言えたはずだ。また、このエピソードが持つキリスト教的モチーフを際立たせるためにも、ぜひ言うべきだ。しかし、聖書ではそういった記述は一切ない。記述にないのは、それが起らなかった(磔以前の過酷な虐待はなかった)からではないのか? それとも過酷な虐待があったことにあえて触れない別の理由があるのか?
もちろん、俺は、イエスが生きた時代の「むち打ち」や「磔」が、正確にどういうものだったのかは知らない。あの時代、「むち打ち」と言えば、この映画で描かれたような過酷きわまりないものだったのかもしれない。だから、そういうことは、いちいち説明しなくてもいいということで、マタイやマルコの聖書の語り手たちは単に「むち打たれた」とだけ言ったのかもしれず、そのことは、現代のキリスト教信者や歴史学者たちにとっては常識なのかもしれない。だが、実際に(研究者ではない)一読者として聖書を読んでみると、この映画で描かれたような過酷で執拗な肉体的残虐行為をイエスが受けたという印象はまず持てない。提督によるむち打ちについてもほんの数文字でさらりと通り過ぎている。全体の印象としては、囚われの身となったイエスは、肉体的な過酷さよりも、むしろ、あざけりや蔑によって、精神的に貶められたように受け取れる。
命に関わるような虐待があったという記述は一切ないにも関わらず、そういうことが実際にはあったのではないかと想像する人間が後を絶たない理由はハッキリしている。聖書には、磔になったイエスの「直接の死因」が書かれていないからだ。
聖書を読むと、磔になったイエスは、しばらくすると、まるで修行を積んだ坊さんが自分の意志で自然に死ぬように死んでいる。磔になったあと、どこかの時点で誰かにとどめを刺され、それで死んだとは書かれていないのだ。聖書を読む限り、イエスは「殺されて死んだ」というよりは、「みずから神のもとへ行った」という印象だ。
だが、現代に生きる俺たちからすれば、それは「嘘」で、イエスはやはりなんらかの外的要因によって死んだはずだということになる。
そこでこんなことを考える。
聖書をどう読んでも、十字架の上のイエスが何かでとどめをさされて死んだというふうには受け取れない(死んだ後に、槍で刺されたとは書いてある)。十字架に磔にされたイエスは、しばらくしてひとりでに死んでいるように読めてしまう。であれば、磔にされた時点でイエスは、瀕死の状態だったと考えるほうが筋が通っているのではないか? では、なぜ、瀕死だったのか? 囚われの身となったイエスが、磔以前に過酷な虐待を受けたか、聖書では単に「むち打ち」と表現されているものが、実は命に関わるほど過酷なものだったからに違いない。自分で十字架を運ぶ事ができなかったことを考えても、ゴルゴダに向かいはじめる時点でイエスはすでに瀕死状態だったのだ、と。
さて、ここで言わねばならない。俺は最近、ある医学的な見解を知った。それは、「人間は、イエスが磔になったような体勢で放置されれば、数時間で窒息死する」というものだ。つまり、この説に従えば、磔以前に致命的な虐待がなくても、イエスは磔になった〈だけ〉で死にうる。磔という刑は、俺たち素人から見れば、槍かなにかで突かれたりしないかぎり、磔になった当人はわりあい長く、二、三日は生きているもののようなイメージがある。が、実際には、あの体勢で釣り下げられると、人間は横隔膜を運動させることが難しくなって、数時間のうちに呼吸困難に陥って死んでしまうらしい。俺たちのイメージとは違って、磔は、罪人を「窒息死」させる刑だというのだ。もしこの説が正しければ、聖書に書かれてある通り(正確には書かれて〈いない〉通り)、イエスは磔以前に死に至るような虐待を受けていなくても、十字架の上で時間が経てばひとりでに命を終えてしまう。そして、もしそうならば、この映画の目を覆うような残虐行為のすべては、映画一流の「ただのフィクション」にということになる。
このイエス窒息死説の真偽はともかく、聖書の語り手たちにとって、このゴルゴダの丘のエピソードの眼目は、自分を殺そうとしている者達に対しても、愛を持って神に祈ることのできたイエスという教祖の偉大さを示すことだったのは間違いない。だから、イエスがどう殺されたかはさして重要ではない。イエスが、無理解な者達の望みどおりに実際に死んで(殺されて)しまったという事実と、自らに死をもたらそうとしている者たちのために神に祈りを捧げたという事実が重要なのだ。このイエスの死にざまこそ、キリスト教の重要なモチーフである「隣人愛」をあらわすエピソードであり、イエス自身による、「教え」の究極の実践例だからだ。もし、この映画で描かれたような虐待が実際にあったとしても、聖書の語り手たちは、虐待行為をこと細かく描写することでイエスを死に追いやった人間達の残虐性をことさらに強調することは、無意味であるばかりか、かえってイエスの「教え」に逆行すると考えたのかも知れない。
この映画の過剰なまでの虐待描写は、先に書いた「磔以前の虐待による衰弱死」という可能性を根拠に、現代に生きる俺たちから見て、「自分がイエスの立場なら、とてもこんな奴のために祈ってやることなんかできやしねえよ」と思える人間(敵・隣人)を描き出している。そして、この、イエスを虐待する人間達の「残虐さ」をたどれば、それはそのまま現代人の「暴力に対する感覚麻痺」に行き着く。つまり、フィクションとして描かれる暴力の過激さに麻痺している俺たちに「これはとても常人のレベルじゃない。さすがイエスだ」と思わせるために、この作品の虐待者達は、あそこまで徹底的にイエスを痛めつけたのだ。聖書にあるような、「つばを吐きかけた」とか「アシの枝で頭を小突いた」とか「平手打ちをくらわせた」とか「ののしった」とかのレベルでは、現代に生きる俺たちにはまるで生ぬるいし、日常的に殺人のニュースを見聞きしている俺たちにとって、ただ殺すだけの殺人者(処刑人)では物足りない。現代に生きる俺たちにとっても「信じられないくらい酷い仕打ち」を、イエスが赦すのでなければ、イエスとキリスト教の崇高さは表現しきれない。少なくとも、この映画の作者はそう考えた。もちろん、この作品は「イエスは磔以前に死に至るような虐待を受けたはずだ」という立場なのだから、過酷な虐待が描かれて当然なのだが、この作品でのそれは、十字架の上でイエスに死をもたらす虐待の描写というよりも、虐待者の残虐性を強調するためのものだ。
映画は表現なのだから、自由にやればいい。おそらく、この作品は、本来俺たちと同じ人間でありながら「人々を救いたい」という信念/情熱を死ぬまで持ち続けたイエスの偉大さを表現しようとしたのだろう。その意味では、この作品は十分に成功している。だが、もし、この作品を映像としての聖書のつもりで作ったのなら、ひどく危ういと言わざるを得ない。なぜなら、自らの崇高さを際立たせるために、異教徒の残虐さや未開さを誇張するのは、宗教の手法としてはもっとも低級かつ危険だからだ。異教徒を、ことさらに極悪人や未開人のように見(せ)ようとする宗教家や信仰者にろくなものはいない。その意味で、熱心なキリスト教徒だと言われているメル・ギブソンは、信仰者としてはかなり「危うい」と言わざるを得ない。「隣人」の過ちを誇張しあげつらうことは、イエスの教えからはもっとも隔たっているのではないか? キリスト教徒ではない俺だが、この映画を見て、まあ、そんなことを思った。
(2005.12.07)
© Annatto Shiquiso
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