「鬼が来た!」について
【前置き】

今回は作品そのものの内容(スジ、結末など)については全く触れられていないので、『鬼が来た!』をまだご覧になってない人が読んでも、全然、大丈夫です。はい。


【本編】

我々が、ある人物の〈人間性〉について一定の判断を下すとき、我々は、その人物が置かれた〈情況〉を取り込みつつ、排斥するという作業を無意識のうちに行う。〈情況〉は、その人物の〈人間性〉を際だたせるが、〈人間性〉に対する評価は、一旦〈確定〉されてしまうと常に〈情況に先立つもの〉へと変化する。

我々は、全ての人間には固有の性質・気質、つまり〈人間性〉が備わっていて、それは、概ね〈恒常的〉なものだと捉えている。逆に言えば、我々が、ある人物に見出す特定の性質・気質を〈恒常的〉なものだと見なすからこそ、それをその人物の〈人間性〉として確定できるのだ。この認識は、我々の〈日常〉に於ける経験から導き出されたものである以上、我々が〈日常〉に留まり続ける限りは有効だ。だが、情況が〈日常〉の閾値を超えたとき、我々がいう〈人間性〉は一気にその有効性を失う。

慈悲深いとか、穏和だとか、あるいは逆に冷酷だとか、残忍だとかと言う判断を、ある人物の〈人間性〉として当てはめ、特定の関係性の中で機能させるには、〈情況〉はいつも〈日常〉の閾値内でなければならない。少なくとも、我々が普通に言う意味での〈人間性〉はかならずそうだ。

初めに言ってしまえば、我々が普通に〈人間性〉と呼んでいたものは、本当は、個々人が持ち合わせている〈日常〉の閾値の違いでしかない。そして、閾値を超えたときに〈生〉と〈死〉のどちらにより指向するかの違いこそが、本来の意味での〈人間性〉の違いと言えるだろう。ここで言う〈生〉と〈死〉は、自分自身の生死を指す。〈日常〉の閾値を超えた情況に置かれた者が、〈生〉へと向かおうとするとき、それは、残虐や冷酷となって現れ、逆に〈死〉へと向かうとき、それは、慈悲深さや自己犠牲となって現れる。閾値を超えた情況に置かれ、自分自身の死(あるいは死的情況に陥ること)を避けがたいものと悟った者が、自分以外の多くの死を望み、いわば、道連れにしようとする行為は、一見〈死〉への指向に思えるが、そうではない。彼は、自分自身への〈生〉に執着するあまり、他者の〈死〉でもって、己の〈死〉を相殺しようとするのだ。

〈日常〉の閾値の違いの言い換えではない真の意味での〈人間性〉がどういうものかは、実は〈その時〉になってみなければ自分自身にさえ分からない。なぜなら〈日常〉の閾値を超えた情況は、一様でも一定でもないし、〈日常〉の閾値を超えた情況は、当事者にとって、あらゆる意味で〈未経験〉であるからこそ〈超えた〉と言えるからだ。当事者が、その閾値外領域を〈日常〉の側から見通すことは決して出来ないのだ。

我々は、自分自身が〈日常〉の閾値を超えた情況に置かれない限り、それがどういうものかは知り得ない。にも関わらず、現に閾値外の情況にいる場合には、今度は、そのことに気付かない。ただ、運良くその閾値外からの帰還を果たせたときにのみ、振り返って、そのことに気付くだけだ。

〈日常〉の閾値のこちら側にいるとき、我々は閾値の向こうを伺い知ることは出来ない。そして、当事者として閾値の向こう側にいるとき、我々はそのことに気付かない。

いや、待て。現実の場で、我々は、今が〈日常〉の閾値を超えた情況だと確信できることがあるのではないか? 例えば、戦争や凶悪犯罪に巻き込まれたときはどうか? 我々は自分が置かれたそうした情況を〈日常〉の閾値外だと充分認識してるのではないか? 

この反論は、一見、的を射ているようだが、本当は違う。ある人物が、自分の置かれた情況を〈日常〉の閾値外だと認識することが出来るのなら、その情況は彼にとってはまだ〈日常〉の閾値内にある。彼がそれを閾値外だと誤認するのは、その判断を、周囲の人間の反応や、知識としての日常と非日常というものに拠るからに他ならない。なるほど、彼の周りですっかりトチ狂った連中や、いわゆる常識的判断からみれば、その情況は〈日常〉の閾値外かもしれない。しかし、彼にとっては違う。それは何も彼の一般的な意味での〈人間性〉が優れているからではない。他の人間にとって、閾値外にしかなり得ない情況を、彼は〈日常〉の閾値内に持っていただけのことだ。だから、全く逆の場合だってありうる。彼以外の者や、常識的判断からすれば、充分〈日常〉の閾値内である情況が、彼にとっては完全に〈日常〉閾値外だということが。

そして、ここからが肝腎なのだが、自分ではない他者が、今現在置かれている情況が、その他者にとって〈日常〉の閾値内であるかどうかを、客観的に判断することは、我々には出来ないのだ。同じ状況下に置かれていた場合でも、単にテレビニュースで見聞きした場合でも、そのことに変わりはない。その情況のあらゆる情報を手に入れて、自分の中で完璧に再現できたとしても、それを受け取る側が自分である以上、決して自分以外の者にとって、その情況がどうなのか(閾値内か閾値外か)を正確に知ることが出来ない。

人間というものがこの地上に生まれてから、世界中で繰り返されてきた人間自身による残虐行為や凶悪犯罪を理解する上で、今、上で述べたことは非常に重要だ。なぜなら、このことは、全ての人間に残虐行為なり凶悪犯罪を犯す可能性があり(〈日常〉の閾値を超えたときに現れるモノは、〈日常〉の閾値内でのソレに全く保証されない)、それは単に個人の資質(気質)によるものでも、ある特定の情況によるものでもなく、その両方が化学反応的に重なり合ったときに、不意に現れることを物語っているからだ。

今ある人間の社会が、ある残虐行為なり凶悪犯罪なりに一定の判断を下す場合、行為に及んだ者が置かれていた情況の〈評価〉は最大公約数的な場所で固定されている。そうしなければ、行為に及んだ者(の行為)に社会は判断を下せないからだ。だが、その「情況の〈評価〉の固定」は意識的ではない。それはいわば、社会の無意識だ。ある残虐行為なり凶悪犯罪なりに社会が下した判断が、我々の心に微かな違和感をもたらすことがある。語尾のはっきりしない言葉を生むことがある。それは、我々の心が、社会の無意識がついている都合のいいウソを一瞬垣間見るからだ。

『鬼が来た!』を観て、まず、この〈語尾のはっきりしない言葉〉が心に生まれた。

■■

そう考えると、〈性善説〉も〈性悪説〉も、結局、雑誌の性格判断と大差ない、安直で脳天気な〈娯楽〉でしかない。人間洞察という観点から言えば、あんなものはあまりに事態を簡略化しすぎている。〈性善〉的であるか、〈性悪〉的であるかは、各々一人一人の個人ごとになら、当てはめて考えることも可能かもしれないが、それを全人類的に普遍化することはできない。というのも、まず、そもそも、〈日常〉の閾値が、人によりまちまちだからだ。つまり、ある人にとっては〈日常〉の閾値を超えた情況たりえることが、別の人には、まだ〈日常〉の閾値内であることがあり得るからだ。だから、例えば、二人の人間が、全く同じ情況に置かれたとしても、お互いの〈人間性〉について、正しく判断するとこは出来ない。

こういうことだ。〈日常〉の閾値のより大きい者とより小さい者が全く同じ情況に置かれた時、閾値のより大きい者にとっては、まだまだ〈日常〉の閾値内であっても、閾値のより小さい者にとっては、既に閾値を超えていると事態が起こりうる。その時、閾値のより大きい者が、より小さい者の〈人間性〉に与える評価は、きっと低くなる。閾値のより大きい者からみれば、閾値のより小さい者の振る舞いは、まだ、〈日常〉の閾値内にありながら、明らかに〈日常〉を逸脱した言動、振る舞いだからだ。この程度のことで、あんなとんでもないことをヤラカスとは、サイテーなヤツだと言う具合に。ここで、肝腎なのは、それぞれの閾値は、お互いはもちろん、自分自身にもはっきりとは分かっていないと言う点だ。つまり、閾値のより大きい者と小さい者が、ある極限的な情況に同時に置かれた時、小さい者はもちろん、既に自身が持つ〈日常〉の閾値を超えてしまっているがゆえに、自分が置かれている情況に対して正しい(妥当な)判断を下すことはできないのだが、実は、閾値のより大きな者も、同じく、しかし逆の意味で、自分が置かれている情況に対して正しい(妥当な)判断を下すことが出来ないのだ。本当なら、すっかりオカシクなってもいいような情況に、今俺は置かれているにも関わらず、俺はマトモ(正気)を失わずにいる、と。この時、彼(閾値のより大きい者)の認識のどこに誤謬があるのかと言えば、彼が、自身が置かれた情況に対して与える評価にだ。人間が自分自身が置かれた情況について「本当ならオカシクなっても不思議じゃないけど、まだ俺は耐えていられる」と思えるなら、その情況は彼にとってまだ〈日常〉の閾値内にあるということだ。つまり、この時、彼は、同じ情況におかれている他の人間の振るまいやなんやかやから、自身の置かれている情況を客観的に〈日常〉の閾値を超えたものだと捉えるわけだが、それはあくまでも平均値的な閾値を超えただけであって、彼自身の閾値を超えた情況ではないのだ。そこで、彼は、自分自身に対して誤った判断を下す。
性善説や性悪説の〈根拠〉は、〈究極の情況〉に置かれたときの人間の在り方を白か黒かで、一般化できるという考えだ。しかし、我々が人間である限り、そもそも、その〈究極の情況〉自体を想定することが出来ない。繰り返しになるが、〈究極の情況〉はそこから運良く帰還し、後で振り返ってみたとき初めて気付くものだ。だから、人間の本質が、悪か善かという問題提議の立て方自体が、初めから無効なのだ。

■■

神という者があって、二人の人間を同じ過酷な情況に置いて観察したとしよう。一人は獣のように振る舞い、もう一人は(普通に言う意味で)人間らしく振る舞った。神はこの二人の人間の〈人間性〉にどんな評価を下すだろうか? 普通に考えるなら、そして、一般に考えられているような〈人間性〉という意味で考えるなら、前者はより劣った人間であり、後者はより優れた人間と言うことになる。だが、神と言う視点からみれば、この二人の〈人間性〉に優劣はつけられない。というか、この実験では、二人の人間の〈人間性〉を比較検討することは出来ないのだ。神はただ、こうは言えるだけだ。前者よりも後者の方が、情況に対する耐性が強い。そして、我々が普段言っている〈人間性〉とは、ここで神が言う〈情況に対する耐性〉に他ならない。

人間にはいつも此岸のことしか分からない。

そんなことを、『鬼が来た!』を観て、考えた。


2003.09.06


©  Annatto Shiquiso

HOME