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悪魔のような人間ではなくても人は人を殺せる。この作品は、殺す側の人間の人間模様を、肯定的とまではいかないが、ある理解をもって描いている。人が人を殺すことになる情況に「ある理解」を示すことが、この作品のスタンスだ。前作の「許されざる者」でもそうだったがこの監督の見事なところは、それがいつも倫理の問題にはならない点だ。倫理的な悪に対する怒りが人を殺させるのではなく、人を殺す(人に殺される)〈業〉を背負わされた人間というものが、この世界にはいつもいるんだというスタンス。この監督にとって、誰かが誰かを殺すのは、ただ倫理の問題ではなく、人間存在の根源の問題なのだ。
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主人公ジミー(ショーン・ペン)は、少年時代の「事件」のせいで、デイブに対して、ある負い目を密かに抱いているが、最後には「娘の仇として」殺してしまう。ここで大事なのは、デイブのことを娘殺しの犯人だと、ジミーに確信させたのは、実はデイブの妻の証言ではないという点だ。見かけ上はそうだし、ジミー自身もデイブの妻の証言によってデイブが犯人だと気付いた(確信した)と思っているが、本当は違う。ジミーに、デイブ犯人説を確信させたのは、少年時代の「事件」以降、ジミーがデイブに対して抱いていた「負い目」だ。
もう少し丁寧に言ってみる。ジミーは、デイブの妻の証言を聞いたとき即座に、少年時代の「事件」をきっかけに人間的におかしくなっているデイブなら、娘を殺した犯人であってもおかしくないと判断した。ジミーもそう思ったし、観客であるわれわれもそう受け取った。だが、ジミーが、不確かな情況証拠(デイブの妻の証言)だけで、デイブを殺人犯だと思いこんだ本当の理由は、デイブが人間的におかしくなっていたからではない。確かに、デイブは精神的に追い込まれた人間だったのは間違いない。だが、それだけで、幼なじみを殺人犯だと決めつけ、更に自らの手で殺してしまうのは、安手のドラマの登場人物だけだ。この作品では、もう少し深くまで人間を描き込んでいて、それがこの作品の奥深さになっている。つまり順番は逆になる。少年時代からの「負い目」のせいでジミーはいつかデイブを殺すしかなかった。だから、ジミーは、デイブが殺人犯であることを無意識のうちに望んだのだ。ジミーは、デイブが娘殺しの犯人だから殺したのではなく、殺さなければならなかったから「娘殺しの犯人である」という可能性に自ら乗ったのだ。ジミーは、デイブを殺す「理由」を無意識のうちに待ち、探していた。デイブが殺人を犯しそうなほど精神的に破綻していることは、ジミーがデイブを娘殺しの犯人だと「勘違い」するための「言い訳」に過ぎない。ジミーにとって、(そして多分デイブにとっても)、デイブが殺されることは必然だった。自覚はなくても、それが必然であることは、ジミーにもデイブにも分かっていた。だからこそ、誤解で友人を殺してしまう(友人に殺されてしまう)悲劇というだけでは、この作品の悲劇性は掴みきれないという印象が残るのだ。
ジミーがデイブに対して抱いていた「負い目」は、少年時代の「事件」に関わったもう一人の幼なじみであるショーンも持っていた。彼が、刑事という職業を選んだのは決して偶然ではない。自覚的であろうとなかろうと、彼が、犯罪を取り締まる刑事になったのは、少年時代のデイブに対する彼なりの贖罪だ。そのショーンが、ジミーが「無実」のデイブを殺したと知りながら、刑事としての行動に出なかったことの意味は大きい。つまり、ショーンも、ジミーと同じように、心の深い部分では、デイブが自分たちの手によって殺されることにある必然を感じていたのだ。
なぜ、三人は、こんな「異常」な思い込みに取り憑かれていたのか? 三人にとって、少年時代に起きたあの「事件」は、ジミーとショーンがデイブを「殺した」事件であり、デイブがジミーとショーンによって「殺された」事件だからだ。もちろん「現実」には誰も殺してないし殺されてはいないのだが、三人の中に生まれたこの「殺し」「殺された」という関係幻想が、呪いのように三人を数十年後の「現実の殺し」へと導いたのは間違いない。だから、現実にデイブがジミーによって殺されたとき、生き残った二人(ジミーとショーン)は、この殺人が起きた「本当の意味」を「理解」して、恐怖すると同時に救われる。デイブに対する幻想の「罪」を贖罪できないまま生きてきたジミーとショーンは、実際にデイブを殺すことで、彼らの罪を「現実」のものにする。それによって、それまで靄のようにまとわりついていた重苦しい罪の気配を、実体としての罪として背負うことが出来た。
この作品のモチーフは、言ってしまえばそれだけのものだ。が、「何が人をそうさせるのか(させたのか)」という、人間にとっての永遠の呪いのようなこの問いに、この作品は一つの明確な事例を示すことに成功している。「答え」ではなく、あくまでも「事例」だ。観客である我々が、示された「事例」によって、ある心の動揺を覚えるのは、その「事例」が意味するところのもの、つまり人間存在の根源の問題を、自覚的であろうと無かろうと、我々が「知っている」からに他ならない。誰もが本当は知っているのに自覚していない重要なことを、この作品は「感じ」させてくれる。
【蛇足】
ついでにもう一つ言えば、愛する人間を信じることができる者は強い、とこの作品は最後に訴えている。愛するということは、倫理の上位にあることを、この作品は言っている。つまり、共同幻想からいつでも跳躍することできるものが対幻想(愛)だと。ただ、このモチーフの扱いはやや取って付けた感があり、家族愛至上主義的なアメリカ社会におもねているだけのような気もする。やはりこの作品の核となるモチーフは、殺す人間と殺される人間の間にある対幻想だ。少年時代の「事件」をきっかけに、ジミー、デイブ、ショーンは三つ巴の対幻想で結ばれ、数十年後一つの悲劇を結実させたのだ。
(2004.11.24)
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