「マトリックス」について
【注意】 まだ『マトリックス』をご覧になっていない方は以下の文章は読まないことをお勧めする。


映画『マトリックス』に於いて、大多数の人間が生き、生活していると考えている世界は、実はコンピュータ(マトリックス)が作り出した幻、夢でしかない。そうではない「現実の世界」を生きるには、そのコンピュータが生み出した幻、夢から「目覚め」る必要がある。だが、目覚めた者には過酷な「現実」が待ち受けている。更に、コンピュータの「電池」として生まれ死ぬだけの眠り続ける人間達を解放する使命まで背負わされる。しかも、「電池」として眠り続ける人類は、みなそのことに気付いておらず、自分は現実を生きていると思い込んでいるのだ。

このモチーフは一見、まさにSF的で目新しいようだが、実は、我々人類が人類であるという自覚を持って以来、常に言い続けていたものだ。すなわち、今、生きているこの世界は、仮の世界であり、何らかの方法で、別のもっと素晴らしい「本当」の世界に生まれ変わることが出来るはずだ、と。
これは、まさに、あらゆる宗教の根底にある世界認識である。

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人類に、仮の世界と本当の世界という二重構造の世界認識を与えたのは、言うまでもなく死の存在だ。人間の意識は、自身の身体という内的環境に拠っている。だが、意識は、その拠り所としている(自身の身体という)内的環境の状態について殆ど何も知らないし、どうすることもできない。身体は、意識とは無関係に生きているからだ。

意識は、ゆっくりと沈没していく客船の乗客のようなものだ。(船長ではなく、乗客だという喩えに異論を持つ人もいるだろう。だが、乗客なのだ。ここで、それについて書くつもりはない。それはまた別の機会に。)乗客は、船が今どういう情況で、どこを航行しているのかを自力では知ることが出来ない。沈没しかかっているかどうかさえ、誰かに教えられるか、客室が水浸しになるまでは気付かない。船は乗客の意志とは関係なく航行し、あるいは、沈没する。だが、乗客にとって、これはどうにも納得がいかないし、おもしろくない。
人が、身体(ということは世界)に対して抱く違和感もこれと同じだ。
人の中にある「わたし」という意識は、その「わたし」を成立させている身体という内的環境に対して不満を持っている。なぜなら、「わたし」は何年経とうが、何十年経とうが常に「わたし」で有り続けるのに、それを取り巻く環境(身体)だけが、時と共に変化し、あるいは劣化し、ついには崩壊するからだ。だが、ここで「わたし」は更に考える。この世界で「わたし」が存在し続けるには、この、身体という内的環境以外、他に選びようがない。ということは「わたし」が存在するためにいずれ崩壊(死)する身体という環境しか用意できないこの世界そのものが、実は「わたし」にとって、いるべき本来の場所ではないのではないか? と。
何千年という間、人類は、この問いを発し続けてきた。
そして21世紀。人類は、未だこの「疑惑」を抱えたまま生き続けている。

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この作品の見事なところは、人々が違和感を感じている世界を、コンピュータが生み出した偽りの世界だと言い切ってしまった点にある。今、世界のどこかに救世主が現れて、天国への誘い(違和感ある世界からの解放)を謳っても、誰もマトモには取り合わない。なぜなら、今生きてる大多数の人間は、天国みたいなものを当てにするほど、大らかでもお人好しでもないからだ。だが、今生きているこの世界が、実はコンピュータの作った紛い物で、現れた救世主は、その紛い物の世界から人類を解放し、我々が現に知っていて、実際の人間として生きているこの「現実」の世界に連れ戻してくれるとしたら、どうだろう。この作品のプロットは、実は、何千年も前から繰り返し語られている「救世主物語」でしかない。一つ違うのは、映画『マトリックス』の救世主は、人類を、天国ではなく、我々が慣れ親しんだ現実のこの世界に連れ戻してくれるのだ。映画『マトリックス』は、人類が違和感を持つこの世界を、コンピュータが科学的に作り出した偽りの世界だとすることで、世界の位相をずらすのだ。世界の位相を一つズラせば、「天国」(人類が本来いるべき世界)の位相も一つズレる。つまり、観客である我々が今、現に生きているこの現実としての世界こそが、人類にとっての本来いるべき世界、つまり、「天国」になる。

ここには面倒な二重構造がある。

つまり、作品の中で、コンピュータに支配された仮想現実に生きている登場人物達は、その世界に対して、何となく違和感を覚えている。そして、我々観客も、今生きているこの現実世界に対して何となく違和感(これは人類であるがゆえの違和感。人という存在が生来的に持っている違和感で実はどうしようもない)を覚えている。映画『マトリックス』では、その違和感を、コンピュータが作り出した紛い物の世界に囚われているためだと言い切る。そして、その紛い物の世界からの解放こそが、違和感からの解放だと続ける。つまり、観客である我々が生きているこの現実に戻ってくることがだ。ここで、現に世界に対して違和感を抱えている観客は、その違和感を作品内で語られる違和感に重ね合わせることで、逆の意味での希望を見出す。つまり、心のどこかでそうであって欲しいと思うのだ。なぜなら、作品内では、違和感のない「本物」の世界が実在し、そこへ抜け出す方法が(可能性の問題は別にして)確実にあるからだ。

かつての教祖達は、現世からの解放(脱却)を、天国というフィクションを語ることで成そうとした。だが、現代にある映画『マトリックス』は、今現に生きているこの世界が仮想世界であるというフィクションを語ることで、それをやろうとする。天国の実在は、信仰の力に拠るところが大きい。だから、現代人の大多数には馴染まない。だが、騙されて仮想世界に生きているという設定は、科学的であり、だから現代人にもウケがいいのだ。(必ず実現可能かは問題ではない。かつて人々が天国を信じた程度に、その可能性を信じられればそれでいいのだ。)

更に付け加えれば、この映画『マトリックス』の巧妙な設定は、観客である我々が現に今生きているこの世界に存在する様々な科学的説明が不可能な事象(超能力、デジャブなど)を、一気に説明してしまう。すべては仮想現実の不具合であり、我々がそれに当惑するのは、この世界が仮想現実だと気付いていないからなのだ、と。(最初に大きな嘘を信じ込ませれば、あとから現れる些末な疑問の説明は簡単ものだ。宗教の歴史を見れば分かる。)
「科学教」の信者である現代人は、多くを説明できる一つの理論、すなわち「究極の理論」に弱い。いや、そうではない。昔から人間は「究極の理論」ばかり追い求めてきた。神、霊界(死後の世界)、占い、そして科学。すべてはその結果だ。だから、映画『マトリックス』に於いて、世界に生きる人間が様々に感じる違和感や不思議を一気に説明してしまう「世界の仮想現実説」は、観客の心を、尚いっそうとらえることが出来るのだ。

かつて、世界中で、様々な教祖達によって説かれた教えによって、人々は世界に対する違和感からの解放(魂の救済)を得ることができた。そして今、来世や魂の存在に冷たい目を向けがちな現代人は、映画『マトリックス』に、一つのリアルな「救世主物語」を見ている。その世界に入り込むことで、自分自身が抱え込んでいる違和感からの解放を、疑似体験するのだ。

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ここで、つまらない疑問を。
もし、人が生まれてからずっと、コンピュータの作り出した仮想現実の中で生きてきたのだとすれば、彼の言う「現実の世界」とは、一体なんなのだ? つまり、世界が、彼が知っているようなものである、有り続けると言うことに、何の意味があるのだ? 作品において、コンピュータが自らが「栽培」した人間のために、あれほどまでに大がかりな仮想現実を作り上げるメリットは一体何なのか? もしかしたら、人類(の脳)は世界を体験し続けないと、あっという間に死んでしまうのだろうか? コンピュータはそのことを知っていて、エネルギー源である人間を出来るだけ長生きさせるために、あのような労力を費やしているのだろうか? それとも、人間の思考、意識活動そのものが、コンピュータにとってのエネルギー源なのだろうか?

世界を体験しない脳は早死にするというのは、確かにありそうな話だ。
コンピュータは、膨大な数の人間の意志を、処理コントロールすることで「生き甲斐」を見出しているという話も面白い。
だが、こういうことも考えられる。人間の脳に目覚めているときと同じような活動をさせておかないと、脳が肉体に指令を出して、肉体を目覚めさせてしまう。だから、脳から出る指令を横道に逸らし、なおかつ脳にはそれが起きていることを悟られないようにするためには、脳にニセの世界を体験させ続ける以外にない。コンピュータはそう判断したのかもしれない。

まあ、どうでもいいことだ。

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この作品のキモは、現世と来世を一段ズラした世界で、救世主物語を正面から展開した点にある。観客である我々が、この作品で展開される派手で新奇な映像の奥に、なにか宗教的な重たさのようなものを敏感に感じ取るのは、この作品が、割合に迫真性を持った救世主物語に仕上がっているからに他ならない。その迫真性を与えたのが、何度も言う、二つの世界の位相の平行移動だ。


ホントか?

2003.06.16

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