|
【まず形而上的な物言いで】
この作品に、ある一定の解釈を与えることは可能なのか?
我々は、『ロスト・ハイウェイ』に〈取り憑かれる〉。感動するのでもなく、かと言って一笑に付すことも出来ず、〈取り憑かれる〉。これこそが、この作品の核心だと思える。この〈取り憑かれる〉と言う感覚は、どこから来るのか?
我々は、不可解な現象に遭遇したとき、そこに隠された〈理由〉や〈動機〉、あるいは〈原因〉を求め、それを探しだし(考えだし)、確認することで、〈安心〉する。我々は、不可解なものが、どちらかと言えば、嫌いではない。が、それがいつまでも不可解であることには耐えられない。人間の心は、どうもそのように出来ているらしい。つまり、人間の心は、自身が遭遇する世界のあらゆる現象に対して、必ずどこかで折り合いをつけて〈納得〉せずにはいられないのだ。世界のあらゆる民族が、一つの例外もなく〈神〉と言う概念を作り出したのはそのためだ。古来、世界中のあらゆる不可解は〈神〉によって〈説明〉され、人類は〈納得〉を得てきた。ところが『ロスト・ハイウェイ』にはそれがない。この納得のいく説明を得られないまま、いつまでも宙ぶらりんの不可解な状態に置かれている感じが、〈取り憑かれた〉と言う感覚を生む。
しかし、ここで一つ言っておかなければならないのは、不可解が、いつも〈取り憑かれた〉と言う感覚を生むわけではないということだ。我々は、ある一線を越えた超現実的作品なら、ただ、超現実的作品として〈納得〉し、楽しむことが出来る。一例を挙げれば、リンチの最初期の作品『イレイザーヘッド』は、『ロスト・ハイウェイ』以上に〈訳が分からない〉が、〈後を引く感じ〉は、ずっと小さい(初めて観たときの衝撃は大きいが)。なぜなら、『イレイザーヘッド』は、誰がどう見ても、この、我々が住む現実世界とは別の世界の出来事にしか見えないからだ。『イレイザーヘッド』は、『ロスト・ハイウェイ』以上に悪夢的・超現実的であるがゆえに、かえって、それを観る我々には、距離のある〈他人事〉として映る。シュールな作品をシュールな作品として純粋に楽しめるのだ。
『ロスト・ハイウェイ』の見事さは、現実と超現実の境目、針がレッドゾーンに振りきれるか否かで小刻みに震え続けている状態をずっと維持したまま、二時間半を突っ切ってしまうところにある。つまり、どうにかすれば、現実的な説明が可能ではないかと思わせるような、超現実世界が描かれているのだ。分かりやすい例で言えば、イキそうになったところで、はぐらかされ、またイキそうになってははぐらかされを続けて、結局イカせてもらえなかった時の感じだ。あとには、悶々とした自分が一人残される。
もう一つ大事な点。それは、作品を観終わった我々観客が、主人公フレッドの〈情況〉に、完全に〈同化〉してしまうことだ。映画を最後まで観ても、結局、何がどうなってしまったのか、フレッド同様、我々にも分からない。辻褄が合いそうで合わない。それこそ、我々観客も、フレッド同様、頭をはげしく振って叫び出す以外にない情況に陥る。普通、観客は、作中の登場人物よりも、少し全体が見渡せる状態で劇場をあとにすることが出来る。物語の途中まではともかく、最終的に観客は、作中の登場人物達よりも、作者もしくは語り手の、つまりは作品世界での神の位置に近い場所で、作品を観終わる。が、『ロスト・ハイウェイ』では違う。我々は、映画を見終わったと同時にフレッドにされてしまうのだ。だからこそ、我々は、(作中で)現実に何が、どういう順番で起き、誰が何をしたのかを、執拗に知ろうともがき始めるのだ。何しろ、我々は既にフレッドなのだから。
【それでも敢えて不可能に挑む】
無理、あるいは無意味を承知で『ロスト・ハイウェイ』で何が起きたのかを考えてみた。異論、反論は当然あろうが、当面無視する。私が、ない頭を絞って捻りだしたのが、以下だ。
ただでさえ混沌としているので、分かりやすいように箇条書きにしてみた。物語の筋ではなく、〈実際に〉どのような順番で、何が起きたのか?当然、まだこの作品を観ていない方は、以下は読まないことをお勧めする。
・レネエが、アンディと出会い、Mr.エディの愛人になる。
・ピートが、アリス(レネエ)と出会う。
・ピートが、アリスに騙されて、アンディ宅に忍び込み、殺される。
(ピートの顔の傷はこのとき出来た。この時、アンディは死なない)
・レネエが、Mr.エディの愛人のまま、フレッドと結婚する。
・フレッドが、アンディのパーティでミステリー・マンと話す。
(フレッドは、Mr.エディが死んだという未来の記憶を持っている)
・フレッドが暗やみに消え、〈違う〉フレッドが戻ってくる。
・〈違う〉フレッドが、Mr.エディを殺す。
・〈違う〉フレッドが、レネエを殺す。
・〈本来の〉フレッドが、レネエ殺害のビデオを観る。
・〈本来の〉フレッドが、「ディック・ロラントは死んだ」と聞かされる。
・〈本来の〉フレッドが、逮捕され、死刑を宣告される。
・ピートの幽霊が、ミステリー・マンと共に両親の前に現れ、消える。
(ピートの両親が秘密にしている〈あの夜の出来事〉)
・死んでしまったピートが、独房にいる未来のフレッドと入れ替わる。
(フレッドの頭痛の原因は、ピートが殺されたときの傷)
・自分が死んでいることを知らないピートは、過去に戻り、アリスとの出会いを繰り返す。
・生き返ったピートは、アンディ宅で、アンディを殺してしまう。
(フレッドと入れ替わったことでの〈事実〉の変化)
・ピートはハイウェイ脇の砂漠(異界)で消え、フレッドが現れる。
(ピートの人生の記憶には、その先がないからだ)
・砂漠から戻ってきたフレッドが、Mr.エディとレネエを殺しに向かう。
(この砂漠=異界からきたフレッドが、〈違う〉フレッドだ)
・ことを成し遂げた〈違う〉フレッドは、インターホンに伝言を残す。
(この伝言を、レネエ殺害ビデオを見た直後の〈本来の〉フレッドが聞く)
・パトカーの追跡から逃れる途中で、〈違う〉フレッドが〈本来の〉フレッドに戻る。
ポイントは、いくつかある。まず、物語冒頭の憔悴しきったフレッドの様子。あれは、すで、レネエのバラバラ死体の中で叫ぶ自分の姿を〈知っている〉それだ。もう一つが、ピートの顔の傷と、彼の両親の涙の沈黙。あれは、ピートがもう死んだ人間だと、彼の両親が〈知っている〉ことを意味している。そして、あの燃える小屋のあるハイウェイの果ての砂漠。あそこで、フレッドとピートの人生が交錯し、時間も組み替えられる。
以上の〈解釈〉は、かなりの力業で、穴もあるが、それなりに〈美しい〉と自負している。
どうでしょう?
【ミステリー・マンのこと】
醸し出す雰囲気とは裏腹にとても分かりやすいのが、ミステリー・マンだ。『ツインピークス』のボブのように、リンチの作品には、悪の心や善の心と言った抽象的な存在が、具象的な姿で描かれることが多い。そして、その存在が何を表しているのかは、ほぼいつも一目瞭然だ。
だが、ミステリー・マンはボブのような〈純粋な〉悪とは違う。ミステリー・マンは、誰もが無意識のうちに抱く強い悪意や憎悪や殺意だ。あるいは、死へ向かう(引き寄せられる)の力。だから、自宅でレネエに対して知らず知らずのうちに殺意(強い憎悪)を抱いていたフレッドは、パーティでミステリー・マンに、以前お会いしましたねと言われるし、ピートを殺そうと決めたMr.エディの横には彼が居る。ピートはその電話で、やはり、ミステリー・マンから、以前お会いしましたね、と言われる。ピートは既にミステリー・マンの手に一度かかっている(死んでいる)からだ。また、Mr.エディを〈実際に〉撃つのは、フレッドではなく、ミステリー・マンだ。
ミステリー・マンには、因果律は適用されず、自由に過去と未来を行き来している。だから、同時に別々の場所に現れることもできるし、未来の出来事について語ることも出来る。
もう一つ。ミステリー・マンが、アリス(レネエ)によって故買屋と呼ばれるのには訳がある。彼は、死んだ人間の魂を、もとの持ち主の意志とは関係なく、売り買い、すなわち故買しているからだ。(ちなみに故買とは、盗品と知りながら買い取ること)
【最後に】
この作品には、リンチの〈怒り〉みたいなものを強く感じる。もっと言えば、観客も批評家もすっかり無視して、俺のやりたいようにやってやる! と言うような、いい意味での粗暴さ、遠慮のなさだ。前作『ローラ・パーマー 最期の7日間』でコテンパンにされたことへの復讐だ。この作品の魅力は、そう言ったことから由来する〈観客に対する徹底的な思いやりのなさ〉なのかもしれない。それが我々ファンには〈良い〉と感じられるのだから、また、凄い(と言うか変)。リンチ・ファンには、多分にマゾっ気があるのかもしれない、などと思う今日この頃だ。
2002.04.10
|