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【注意】
以下のノートには、この作品のネタバレっぽいものがふくまれます。しかも、評価してません。要するに悪口です。これからこの作品をご覧になるつもりの方は、読まない方がいいですよ。
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まあ、はっきり言ってしまえば、あざとくて、こざかしい映画だ。心理学とか精神医学とか、そういうものの教科書に書かれてることをネタにして出来上がったような作品。全編に、作り手の貧弱な精神性と、こざかしい中学生のようなやすっぽさが漂っていて、観ていてイラつく。もっと言ってしまえば、人間に関する様々なデータを持っているロボット(コンピュータ)が作り出したような作品世界で、一から十まで設計図通りという感じに観てる方はシラケてまう。
なにかと話題のラスト・カットだが、俺たちは別に「あそこでいったいなにが起きているんだ?」と思い悩む必要はない。何も起きてないからだ。あのラスト・カットには、作品世界内の出来事としては何も想定されていない。あのシーンは、観客である俺たちに何か不穏なことを想像させるためだけのものだ。あのラスト・カットはそういうスタンスのシーンだ。「作り手は語るべきものを持っているのだが、敢えてそれを曖昧に表現した」というのではなく、最初から何も語ってはいないのだ。あのシーンに隠されたストーリーなど何もない。ただ、本当に、見たままの、雑踏の中で二人の少年が話をしている、というだけのシーンで、それ以上の意味は作品内の〈事実〉としては何もない。
あのラスト・カットは、それまでの経緯を知っている者(俺たち鑑賞者)が目にしたときにだけ、不穏な意味合いを帯びるようになっている「装置(仕掛け)」に過ぎない。作品世界のストーリーを語る上での必然としてあのラスト・カットがあるのではなく、あのラスト・カットに幻の〈意味〉を与える為に、それまでの本編があると言っても良いくらいだ。なんでもないあのラスト・カットで、俺たちのうちに〈不穏な気分〉を生み出させることがこの映画の作り手のサイダイの狙いなのだ。だから、ラスト・カットのあのシーンは映画の作者が俺たち観客に仕掛けたチンケなペテンというだけのものだ。作品世界の〈中〉に隠された〈知るべき何か〉、作者が伝えようとした〈何か〉があるわけではない。マッタク、子供騙しもいいところだ。
この作品の主人公にとって、ラスト・カットのあの光景は必ず不穏なものとして映るだろう、と俺たち(この作品の鑑賞者)は知っている。だから、あのラスト・カットに、本当はありもしない〈意味〉や〈ストーリー〉を読み取ろうとするし、読み取ってしまう。つまり、あのラスト・カットを、俺たち鑑賞者は、まるで主人公と同じように、ゆがんだ視線で見ていることになる。そしてそれを、我々観客に体験させることが、あのシーンを作った者の狙いなのだ。
いったい、この作品のモチーフはなんなのか? それを知る為にラスト・カットから少しさかのぼってみる。ラスト・カット直前の主人公の夢は、彼が「追い出した」少年が、施設の大人達にムリヤリ連れて行かれる場面だ。第三者にとってみれば、それほどのことでもないその光景が、主人公にとっては「罪」の光景になる。なぜなら、主人公が、件の少年をそういう情況に追い込んだのだから。「罪悪感」が、何でもない光景に〈意味〉を与えてしまうのだ。罪悪感が先入観となってなんでもない光景に独自の意味を与える。この映画のモチーフは要するにこれだ。全編を通じて描かれているのは「先入観が目の前の現実をゆがめる」という、哲学かぶれ、心理学かぶれの中学生が得意になって言いふらしそうな陳腐なネタだ。
いや、モチーフは何を選んだっていい。カンジンなのは、それをどう表現するかだ。映画は表現の手段だから、モチーフよりも、それをどこまで切実に迫真性をもって、表現しうるかが問題だ。その点、この映画の表現レベルはアダルトビデオと同じだ。アダルトビデオは、いかにして鑑賞者をスケベな気分にさせるか、とその一点にしぼって作り上げられる。「スケベな気分」を「不穏な気分」に置き換えれば、表現のための〈やりかた〉は、そのままこの映画のそれになる。かたや、どれだけ効果的にスケベな気分にさせるか、もう一方は、どれだけ効果的に不穏な気分にさせるか。どちらも、作家が自分が思うリアリティを作品世界において追究した結果、鑑賞者の側に一種の共感として否応なく立ち現れる、スケベさとか不穏さとかではない。作品世界が、最初からスケベな気分になってもらうためだけの全てであるし、不穏な気分になってもらうためだけの全てなのだ。だから、アダルトビデオもこの作品も、作品世界が、白々しいというか、とってつけたような嘘っぽさで埋め尽くされていく。要するに「狙ってる」のがバレバレなうえに、狙ってばかりで「中身」がナイガシロになっているから、表現として観るなら、とにかくひたすらつまらないのだ。
劇中のビデオテープも、誰が撮影しているかとか、そういうことは、この作品では全く問題ではない。作中の主人公達には大問題であるかのように描いているが、作者にとってはどうでもいいことなのだ。単に、「自分が隠し撮りされているテープを観るという情況」の不愉快さや不気味さを、表現しようとしているに過ぎないのだから。
この作品は、総じてこんな調子だ。作者の中に明確な「答え」が先にあって、わざわざ「問題」を作っているから、あざとく、こざかしい感じになる。しかも、その「答え」がありきたりというか、教科書的な陳腐さに満ちているから、映画的な目くらましを取り去ると、途端に、ハリボテと書き割りでつくられたようなお粗末な作品世界があらわになる。
とことん追いつめて言ってしまえば、作り手の「人間に対する洞察の深度の〈浅さ〉」が、この作品のつまらなさの原因だ。しかも、そのことに作り手自身は気付いていないから、心理学や精神医学の事例にちょっとイロをつけたようなものを作品と称して、いっぱしの映画監督気取りで澄ましていられる。大した学はない俺たちだが、この作品には生身の人間が描かれていないことはすぐ分かる。その時点で人間を描いた表現としてはほぼ0点だ。操り人形のような登場人物達が、心理学や精神医学の理論に基づいた言動を繰り広げ、俺たち鑑賞者にそうした理論が指し示す心理作用をもたらそうとする。要するに、お涙ちょうだいのメロドラマや、びっくりするだけのスプラッターものや、裸のネエちゃんがやたらとアヘアヘするだけのアダルトものなんかと同じだ。表現すべきモノを内にもっていない者が、表現のマネごとをすると、だいたいいつもこういう感じになって、それを見せられた俺たちはとにかくイライラすることになる。
(ミヒャエル・ハネケ監督「隠された記憶」について 2008.10.31)
© Annatto Shiquiso
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