『ファニーゲーム』について

(ミヒャエル・ハネケの手法はポルノ・ムービー)


かつてアナトーは言った。

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ある雑誌(クーリエ・ジャポン)を読んでいたら、白いボーボーヒゲの、まるで宮崎駿のニセモノみたいなオッサンのでかい写真が載っていた。ハネケという変な名前の映画監督で、記事を読んで思い出した。『隠された記憶』という下心丸見えの映画を撮ったオッサンだ。今度、このオッサンの代表作とされている『ファニーゲーム』というこれまた下心丸見えの映画のリメイクをハリウッドでやる、というかやったというか、そういうことに絡めた記事だった。しかも、ハネケ本人がオリジナルそのままにリメイクしたという、なんだかなあという話。

記事を読んでひっくり返りそうになったんだけど、このオッサン、ウィーンで映画を教えているらしい。記事の中で当人もなんだかもったいぶったことをあれこれ言っていたけど、俺に言わせりゃ『ファニーゲーム』の本質はポルノ(アダルトビデオ)だ。そんなモノを勿体つけてわざわざハリウッドでリメイクまでするヤツから何を学ぶんだろう? 上手な金儲けの仕方か?

『ファニーゲーム』は暴力をポルノ(アダルト・ビデオ)の手法で描いたものだ。というか、ハネケの映画は、この『ファニーゲーム』も後の『隠された記憶』も、ハネケがやってることは単にポルノだ。

『ファニーゲーム』の中の〈暴力〉は、ハネケ本人が言うように「映画の安易な暴力表現」を否定するための〈暴力〉表現でしかないから、登場人物達にその暴力行為への必然が全く感じられない。全ての登場人物は、〈暴力〉そのものを表現するための道具立てでしかない。要するに、ポルノの登場人物の全てが、主演女優(と男優)の性行為場面の為の道具立てでしかないのと同じだ。

ハネケ本人は、カンヌの観客の動揺させ、途中で席を立たせたことにご満悦らしいが、カンヌの観客はポルノを観に来ているのではないから、不愉快になって席を立つのは当然だ。

ポルノ(アダルトビデオ)は、筋立てよりも演技よりも、まず、性行為描写の迫真性だ。筋立てが陳腐なほど紋切り型だろうと、登場人物のセリフが呆然とするほど棒読みだろうと、性行為の描写が真に迫っていると感じさせれば、まず「合格」だ。だいたい、ポルノの中の性行為は、演者の練度が低ければ〈演技を通り越してしまって〉かえって〈良く〉なることは日常的で、鑑賞者もその方を喜んだりするモノだ。演じてない方がいい、というわけ。

さて、ハネケの大将だ。

現実の「暴力」が、なんのストーリー性もなく、理不尽で、どんでん返しも救いもない、愚かで不愉快なものでしかないことを、ハネケの「暴力」はよく描いてはいる。だが、そんなものは、一人前の社会人なら多かれ少なかれ〈既に知っている〉。わざわざ大将に教えてもらわなくてもいい。それは俺たちが思い描く(あるいは実地に体験する)〈本当の暴力〉の〈典型〉だ。ポルノが表現としていつも〈低く〉見られるのは、一人前の社会人なら誰でも実地に〈既に知っている〉つまり〈典型〉としての性行為の場面が、作品のキモになっているからだ。作り手や演者の独自性がなければないほど、つまり典型的であればあるほど性行為の場面は鑑賞者にとって〈良く〉なる。こんなものを誰も表現として〈高度〉だとはみなさない。

ハネケの「暴力」もポルノの「性行為描写」も、鑑賞者が実地の社会で〈既に知っている〉こと〈そのもの〉すなわち〈典型〉だから〈効く〉。そこには、ハネケやポルノ制作者の独自性のカケラもない。いや、独自性があればあるほど、ハネケにとっても、ポルノにとっても、マイナスだろう。ハネケの「暴力」には何の独自性もない。実地の暴力そのままの理不尽さをそのまま描き出す。その独自性のなさが「暴力」の迫真性になっている。この手法は、あらかじめ〈ねつ造〉であることを公言しているドキュメンタリーと言える。その代表が、ポルノ(アダルトビデオ)というわけだ。

〈典型〉の暴力描写をやり尽くして〈やりっぱなし〉にしていれば、この『ファニーゲーム』も、「過激な暴力描写」が売りの映画としてそれなりの、作品世界を構築できていたはずだし、それなりの芸術的価値ももてたはずだ。が、実際にはそうはならなかった。ハネケの小賢しさというか、表現者としての底の浅さが災いして、映画としてはただのクズになってしまっている。

理不尽な暴力を振るい続ける殺人犯たちが、物語の途中で「これは映画」「たかが映画だから」と自分たちの暴力を観客に向かって弁解する。これでこの作品の命はオシマイ。犯人が、観客である俺たちに向かって「映画なんだから、そんなにムキになるなよ」と言う。致命的だ。テレビならこの時点でチャンネルかえるよ。もちろん、この主張は犯人が言ってるのではない。作者であるハネケのものだ。

ハネケ程度の三流インテリの考えてることはすぐに分かる。映画の中に紛れ込んでいる(ようにハネケには見える)暴力やファシズムへの肯定的態度が、ハネケには許し難い。どうということもない恋愛映画が、破廉恥きわまりないポルノに見えてしまう修道院の尼さんと同じ感覚を、映画の中の暴力やファシズムに対してハネケは持っている。そこで、彼がその点を糾弾しようと声を上げると、そうは思わない俺たちが言う。「まあまあ、そう言わずに。たかが映画じゃないか」と。ハネケは、自分の作品の中で、それと全く同じ台詞を、理不尽な暴力を振るい続ける殺人犯達の口を借りて、俺たちに言い返す。つまりこうだ。映画の中の暴力に対して「たかが映画じゃないか」と気楽に構えている俺たちでさえ「こりゃひどいぜ」と感じてしまうような暴力描写を作り上げておいてから、俺たちに向かって「たかが映画じゃないか」と言うことで、ありがたいことに、映画の中に潜む暴力やファシズムの危険性に対する俺たちの迂闊さを気付かせくれようとしているのだ。「ごまかしなく描けば暴力はこんなに我慢成らないヒドイものなんだ。それでもあんたらは、たかが映画なんだからと言えるか? 言えまい」と。

以上のような理由から、作中の殺人犯は「映画だから」という台詞を発したわけだが、念を押しておくと、この映画がダメなのは〈台詞の発せられた理由〉にあるのではない。理由なんかどうでもいい。作中の傍若無人な殺人犯が「どうせ映画だから」と言ったこと自体がダメなのだ。

作中の殺人犯たちが、「どうせ映画だから」と言ってみたり、都合の悪い事態に陥ったときに映画の世界のテープを巻き戻して事態を修復したりするのは、この作品が、作品世界自体を描くことよりも、そこに映し出される暴力そのものに俺たち観客が自覚的になることを狙って作られているからだ。要するに、この映画は、鑑賞のための文学ではなく、語学学習のための例文のようなものなのだ。

映画が「どうせ」作り物なのは誰でも知っている。作り物であることを分かった上で、ある種の真実性を感じ取りながら鑑賞するから、映画という、冷めた目で見れば馬鹿げたシロモノが芸術として成り立つ(芸術なんてすべてそうだ)。だから、劇中の人物が「しょせん映画なんだから、そんなにムキになるなよ」と観客に向かって言った時点で、その映画は終わりだ。映画の中の世界を現実だと無条件で信じる事が許されているのはただ映画の中の登場人物だけだからだ。

その通りなのだ。なにも作り物なんか観なくても、ホンモノのエグイ映像は今やネット上に氾濫しているし、どこも救われない暴力事件なんか、大昔から現実世界にゴロゴロしている。そういう映像や現実に対してムキになったり本気になったりする方がよっぽど世のために人のためだろう。映画なんか観てる場合じゃない。とくにハネケのなんか。

では、作り物でしかない映画が作られなければならない理由はなんだ? それを表現したい人間がいるからだ(それ以外の理由は全部ニセモノだ)。そして、表現するということは、必ず「誰かに伝えたい」ということを意味する(ちなみに、ここでいう〈誰か〉にまず挙げられるのは表現者自身だ。すべての表現者はまず自分自身に向かって表現する。常識)。つまり、映画を作り、それを〈誰か〉に見せながら、「映画なんだからそんなにムキになるな」というのは、表現者としては完全な自己矛盾、というより自己否定。表現者であるなら、自分の創作物の鑑賞者が「ムキになる」ことこそを望む。表現者自身が自作についていう「たかが映画だから〜」という発言は、つまりは「この作品は観なくていい」とほぼ同義だということだ。観なくていいなら、表現するな。

ところが、映画は現にここにある。ハネケの大将は見て欲しいのだ。なにを? ハネケは、俺たちに、映画の作品世界の中に入り込まずに、映画を映画の〈外〉から、映画という表現手段それとして見て欲しがっている。要するに、一鑑賞者として作品世界に入り込むのではなく、テレビ局のプロデューサーが、番組を、内容そのものの出来ではなく、視聴率やクレームの可能性やスポンサーのウケという視点でみるように、『ファニーゲーム』を見て欲しいのだ。ハネケはこの作品をそういう目的で作っているし、実際そういう内容であり、そんな出来だ。芸術ではなく啓蒙書のつもりなんだろう。だから、俺たちはこの作品をバカバカしく思うし、時間を無駄にしたと感じてしまう。

厳密に言えば、『ファニーゲーム』は暴力を描いた物語映画ではない。ポルノ映画の手法を借りた映画批評だ。というか、映画ファンも含めた映画界全体に対する批判なんだよ。単なる楽屋落ち。これに気付いたときの感覚はアレに似ている。テレビをつけてみたら、よく知った俳優が映し出されていて、彼の日常の生活が紹介される。なんの番組だろうと思って見ていると、最後に健康食品の通販CMだと分かる。つまり、この作品は映画の中の作品世界そのものではなく、ハネケの血走ったイデオロギーか、恩着せがましい信念を〈売る〉実演販売パフォーマンスなのだ。

芸術家や表現者と呼ばれる者は、総じて「作品を通じてメッセージを伝えたい」と言う。たいていみんなそう言うが、アリャ嘘だ。本気でそんなことを言ってる芸術家や表現者は才能の枯れ果てたデガラシか、商売目当ての三流に決まっている。画家は絵を描くこと自体が、音楽家は音楽を作ること奏でること自体が、文学者は作品世界を作り上げること自体が、そして、映像作家は映像世界を作り上げること自体が、まず一番の欲求であり、そこにメッセージがあろうとなかろうと、そんなのは構ってはいない。作品に〈込められた〉メッセージなどというのは、まあ、後付けかでっち上げ。すべての表現作品は〈作者自身のため〉でしかない。戦争に勝つためでも、全人類の平和を実現するためでもない。〈作者自身のため〉以外に作り上げられた表現作品は、善も悪もなく、いかにもオボロゲだ。ハリウッド映画の「続編」は、なによりもまず商売のために作られることが多い(全てとは言わないが)。作り手の「表現したい」という情熱よりも、金を出すヤツの「儲けたい」という情熱の方が強く出て、結果オボロゲなシロモノができあがる。それを見せられた俺たちは、電子レンジで温めた白飯を食わされた時みたいな〈オモシロクナサ〉を感じる。こいつは本当の炊きたての白飯じゃネエな、と。作り手の「表現したい」という欲求や情熱が作り上げた作品と、商売や戦争や世界平和や主義主張の手段として作り上げられた作品の違いを、俺たちは、自分たちで思っている以上によく見分けることができる。

映像表現者としてのモチーフは何も持っていないハネケは、この『ファニーゲーム』のような映画という表現法を使った映画批評みたいなものや、『隠された記憶』みたいな精神医学や心理学の教科書用再現ドラマみたいなものしか撮れない。もう一度言うけど、ウィーンの学生たちはこんなヤツから映画の何を学んでるんだろう?


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2009年8月15日(改)
2009年1月10日(初)


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