映画「エクソシスト」について
この物語で、作家は、悪魔に取り憑かれる少女リーガンの「素養」と「環境」をさりげなく、だが、きちんと描いている。まず父親不在の家庭であること。彼女の父親は「自分の娘の誕生日パーティにさえ駆けつけない」次に、日本で言う「こっくりさん」のようなオカルトじみた遊びに、一人で興じていること。この遊び自体は特にどうと言うこともない単なる子供の遊びの範囲なのだが、そう言うものに興味があり、実際に自分でやっていると言う点が重要なのだ。そして、彼女の年齢。初めて「症状」が現れるのが、12歳の誕生会の場である。12歳という年齢は実に暗示的で、平均的な少女が初潮を迎える時期に重なる。要するに、この後悪魔に取り付かれるリーガンは、思春期を迎えた家庭環境の不安定なオカルト嗜好のある少女、と言うことだ。言ってみれば、かなり典型的(悪く言えば紋切り型)な設定である。

思春期には誰の心にも異質な何かが芽生える。いや芽生えるという言い方は少し実感と違う。思春期に入ると我々は皆、今まで気付かなかった心の中の「それ」に気付く。「それ」は我々の心に黙って上がり込み、知らない間に住みついている。「それ」は最初自分自身でもよく分からない名付けようのない何かなのだが、よくよく調べてみると、実は、子供から大人へと変わる段階において、遭遇する新しい自分の心だと分かる。それはより具体的な性的な目覚めであり、子供から大人への世界の変容でもある。自分自身が変わることで、世界そのものが今までと違って見えてくる。世界の見え方まで変えてしまう自分自身の内部の「それ」を正しく認識し、自分の者とするには、知識と時間が必要だ。だから、それまで、我々は正体不明の「それ」の強大な影響力に翻弄され、怯え、立ちつくすことになる。たいていの場合、子供は「それ」と「それ」によって見え方が変わっていく世界を、ひどく邪で汚らわしく「いけないもの」のように感じる。「悪魔」に取り憑かれた少女リーガンの場合も同じだ。彼女の「悪魔」が特別だったのは、それが理性による規制を逃れ、完全に暴走してしまったことだ。
「悪魔に取り憑かれた」思春期の少女が、あのような性的にみだらな振る舞いに出るのは、キリスト教的な倫理観に対する反発と言うよりも、少女の内部の性的成熟とそれに伴う性的欲求の爆発的な発現と見るべきだ。たとえ自覚がなくても、彼女の性的欲求と母親に対する不満は悪魔を演ずることで一気に解消される。だが、見た目の派手さとは裏腹に、彼女の苦しみは、もう一人のそれに比べて底が浅い。

そのもう一人とはこの作品の真の主役カラス神父である。この作品で作家が本当に描きたかったのは彼だろう。最重要のテーマは彼が背負っている。彼の心に巣くった苦悩の元凶は、少女リーガンの「悪魔」のように単純化し、対象化できない。それはリーガンのように、若く新しい心にぽつんと現れた異物ではなく、長い年月を掛けて心の中で複雑に混ざり合った悪い霧のようなものだからだ。苦悩の原因は、単に、仕事に対する迷いや、寂しい思いをさせて死なせてしまった母親に対する後悔の念だけではない。そう言ったものがすべて積み重なって、彼を苦しめている。その疲れた姿から、彼の傍らには既に「死」が寄り添っているのが見える。彼もまた「悪魔」に取り憑かれている状態なのだ。それはリーガンの「激症性悪魔憑き」とは違って、癌のように静かにしかし確実に彼の心を蝕んでいく「静かな悪魔」だ。リーガンの場合は全てを「悪魔」に背負わせているので、その「悪魔」を追い払う事が出来れば彼女を救うことが出来る。しかし、カラス神父の場合には既に自己と「悪魔」とは同じもので、彼を苦しみから救うには彼自身を追い払うしかない。それはすなわち彼自身の死を意味する。

それは何もカラス神父ばかりの話ではない。成熟した大人の心は皆、さまざまな要素が絡み合って作り上げられていて、悪い部分が出来たからと言って、今更それを外科手術のように切り分けて捨てることは出来ない。リーガンが自身の邪な心を「悪魔」として対象化し切り離せたのは、彼女の心が未熟だったからだ。邪悪は心も自分と言う認識がないために、それを徹底的に他者として捉え、それによって、脆弱な自我を守ろうとした。神父として悪魔払いを成功させようとしたそんな彼が、最後にひとりの人間として少女の「悪魔」と対峙することになる。実はあの瞬間、彼は本当に少女を殺そうと思ったのかもしれない。彼がボクシングの練習をしている場面が描かれているのにはかなり重要な意味がある。この作品に於いて、カラス神父はボクサーである必要があった。そうでなければ、物語の大詰めで、神父に殴られたくらいで悪魔が少女の体から飛び出してくる場面が成立しない。説得力がなくなる。

いや、まだ説明が十分ではないかもしれない。強力な悪魔払いの儀式でさえ、追い出すことの出来なかった「悪魔」が何故、殴られたぐらいで飛び出してくるのか? そもそも少女に取り憑いた「悪魔」とはなんなのかを考えてみれば、その答えは見えてくる。それは少女自身の欲望や、悪意、憎悪といった文字通り悪魔的な精神そのものではないのだろうか。つまり、彼女の中で生まれ、育ち目覚めた「悪の心」だ。それは思春期にありがちな肉体と密着した押さえがたい欲望であり、実は、非常に人間的な心でもあるわけだが。その傍若無人な欲望にはどんな言葉もどんな脅しも通用しない。それを黙らせることの出来るのは唯一「死の恐怖」だけだ。そう、少女の「悪魔」(実は少女自身)は、拳闘使いの神父に本気で殴られたことで、生まれて初めて死の恐怖を体験し、沈黙したのだ。

さて、神父に殴られた少女は、死の恐怖によって、自身の「悪」を浄化するが、逆に神父はそれまで押えつけられていた自身の「悪」によって、瞬間的に肉体を支配され、少女の首を絞めそうになる。すんでのところで彼は踏みとどまり、窓から飛び降りて自殺する。神父を支配した「悪魔」と少女に取り憑いていた「悪魔」は全く別のものだ。少女の「悪魔」は確かに質は悪いが、致命的なのは神父の「悪魔」のほうだ。

少女と神父に対する独立した第三者的な存在の「悪魔」を想定するなら、あの場面は少女に取り憑いていた悪魔が瞬間的にカラス神父の体に乗り移り、神父の自殺と共に退治された、と言うことになるだろう。しかし本当はそうではない。神父と共に階段を転げ落ちて死んだ「悪魔」とは神父自身の「悪魔」でしかない。神父の顔に現れた「悪魔の形相」も、少女のそれとは無関係な神父自身の内部で長い年月を掛けて成長してきた「悪魔」の顔なのだ。

(1999.11.25)


©  Annatto Shiquiso

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