『ドッグヴィル』について

(以下の文章には作品のネタばれが含まれます。ご注意下さい。)


『ドッグヴィル』を観た。
主人公グレイスが、ドッグヴィルの住人から受けた仕打ちは、かつて、イエスが迫害者たちから受けた仕打ちの裏写りのようだ。その後の主人公の振る舞いは、イエスとグレイスとでは大違いだけど。

結局、ドッグヴィルの住人トムが、村人たちに実践を促そうとしていた寛容さと慈悲、いわゆる〈隣人愛〉を、本当に実践していたのはグレイスの方だ。

村人達は、最初よそ者であるグレイスを厄介者と見なし追い出そうとするが、完全に無抵抗な彼女が自分たちの欲望(不満や肉欲やなんやかや)のはけ口として都合のいい存在と気付いた途端、村に引き留めようとする。しかしグレイスの告白を聞かされ、つまり、今まで村人の仕打ちに対して沈黙を守り続けていたグレイスが、遂に、彼ら自身に彼らの本当の姿を示して見せたときに、村人達はグレイスの人間離れした「傲慢」とさえ呼べる慈悲心と、それによって引きずり出された自分たちの醜さの両方に恐れをなして、彼女をギャングに引き渡すことに決める。あまりに寛容すぎ、慈悲深すぎる者に対峙したとき、人間はどこまでも下劣に成り下がってしまうということを、村人達は、グレイスの告白を聴いたときに、痛感し、それに恐怖したんだ。グレイスのような存在が自分たちのそばにいれば、自分たちはトコトン人間として落ちていくことを思い知らされた。だから、グレイスをギャングに引き渡し、村から排除することにしたのだ。別に、グレイスに対する自分たちの仕打ちをそのものを悔い、罪滅ぼしを、と思ったわけではない。それなら、ギャングに引き渡したりはしないで、村人として親切に接し続ければいいだけだからだ。

登場人物の内で、主人公のグレイスがファンタジーで、ドッグヴィルの住人が現実だ。ここで言うファンタジーとは、あり得ない人間、嘘という意味だ。だから、村人はただの人間だが、グレイスは人間じゃなく、超人間的存在だ。山村でも、国でも、地球でもなんでもいいが、そういうただの人間の集まりの中に、人間を超えた(外れた)存在がポンと入り込んだとき、人間はどう振る舞うのかといえば、まあ、こうなるだろうってのが、この映画のモチーフの一つだ。村人達が特別ひどい連中だとかそう言う視点はない。ふつうの人間は、こんなもんだ、という視線だ。

状況の異常さ、あり得なさは、グレイスという存在が原因だ。ドッグヴィルという村がもともと異常なのではなく、ふつうの村に、グレイスのようなあり得ない存在を放り込むことで、この物語は転がり始める。あらゆる物語は、特異な状況を設定することで、転がり始める。どこかかに閉じこめられるとか、小惑星が地球にぶつかるとか、誰かが誰かを猛烈に恋いこがれるとか、なんでもいいが、平板な日常の水面に波紋をつくりだす石を投げ込むことで、物語の中の人間は語るに足るだけの動きを始める。この作品では、グレイスがその水に投げ込まれる石だ。グレイスが物語のための嘘なんだ。

おもしろいのは、このグレイスがどういうつもりで、こんな仕打ちに耐え続けているのかが、最後の最後になるまで分からないところだ。グレイスがギャングに引き渡されるまでは誰だって思うはずだ。この女は、ただのノータリンのバカなんじゃないか、と。だが、最後に、ギャングのボスのキャデラックの中で、グレイスの〈ばかげた〉振る舞いの意味のすべてが分かる。村人達は、グレイスに試されていたのだ。うわべは、グレイスが村人達に試されているようにみえて、実は、村人の方が、審判をうけていたわけだ。で、結局、やっぱり、こいつら全然だめだ、ということで、最後に皆殺しにされてしまう。

この手の話は、別に、目新しいものじゃない。日本の昔話なんかにもよく出てくるモチーフだ。神様とかナントカ仏とかが、みすぼらしい乞食かなにかに姿を変えて、村人に助けを乞う。そうとは知らない村人は、彼を足蹴にして追い払い、あとで、罰が当たる、みたいな話だ。『ドッグヴィル』は、そういう話の大人版みたいなものだ。

言ってしまえば、これだけのものだけど、実際に作品を観ると、とても面白い。面白いって言うのは、笑っちゃうという意味じゃない。自分が人間であるということに対して、ケツの下がもぞもぞしちゃうという意味だ。『鬼が来た!』という映画の感じに似ている。人間じゃないナニモノカに、「どうよ、人間?」って、詰め寄られてる感じ。いいねえ、ドッグヴィル。長いけど、章立てになってるから、分けて観ればどうってことない。

もう一つ、大事なことを忘れてた。舞台上に白線を引いただけの、書き割りすらない村のセット。セットとも呼べないような代物。カット割りなしで、文字通り同時に、複数の登場人物が「今」何をやっているのかを、観客に見せることが出来る。家の壁や屋根がない(透明な)せいで、観客は、まるで神の目を持ったかのように、〈すべて〉を見渡せる。このあり得ない感覚が、この作品の大半で描かれる「人間のえげつなさ」を直視せざるを得ない観客にとっての、緩衝材になっている。ちゃんとしたセットのあるふつうの映画を観るときよりも、少しだけ高い目線
で、つまり、生身からすこし浮いた状態で、観客は、登場人物達の振る舞いを受け取ることが出来る。目の前の出来事をほんの少し抽象へと逸らしながら、受け取ることが出来るから、観客はなんとかこの作品を見続けることができる。もしそうじゃなかったら、SM的な嗜好を持ち合わせてないふつうの人が見続けるのはけっこうキツイぜ。いや、SM映画じゃないけどね。

(アナトー)2006.09.24


©  Annatto Shiquiso

HOME