「CASSHERN」について

オリジナルの『キャシャーン』を知ってる人間はみんな、『CASSHERN』には面食らったのだろう。俺も面食らった。アメリカ映画の「バットマン」とか「スーパーマン」とかそいういうヒーローものの実写化だと思って見始めると、観客はすぐに客席の隣に座った人と顔を見合わせることになる。しかし「好きにやる」というのはまさにこういうのを言う。映像的にも、ストーリー的にも、容赦がなく遠慮もなしに、まさに好きにやってる。俺は、まず、その辺がとても気に入った。



俺たちがガキの頃に観たオリジナル『キャシャーン』の「衝撃」を、年食ってから、年食った俺たちに通じる「衝撃」に誂え直すと、この映画で表現された徹底さと、説教臭さと、遠慮のなさになる。言ってしまえば、当時ガキだった俺たちにとって、『キャシャーン』は確実にトラウマだ。ガキだった俺たちはみんな思ったはずだ。キャシャーンごっこはしても、自分は「本当のキャシャーン」には絶対なりたくない、と。なぜなら、アニメヒーローにも関わらず、キャシャーンは少しも報われず、救われもしない存在だということを、俺たちはガキだったけど、意識の深い部分でちゃんと分かっていたからだ。今振り返ってみればそう言える。キャシャーンは単にヒーローというには、あまりに寂しすぎ過酷すぎるのだ。『キャシャーン』を観る度に、ガキの俺たちの心には、そうとは気付かないまま、かすかな澱が少しずつ溜まっていった。キャシャーンは、僕じゃない誰かがなるならいい。けど、僕が「本当のキャシャーン」になるのはゴメンだ。ガキだった俺たちがその時に溜め込んだ心の澱の正体を突きとめて、俺たちがなぜ『キャシャーン』に魅入られ、同時に恐れたのかを、年を食った今の俺たちにも納得できるように「翻訳」したのが、この『CASSHERN』だ。



『キャシャーン』とは逆に、『CASSHERN』では、ブライキングボス(ブライ)が、実はもとはただの人間だったというオチになっている。実はただの人間だったブライが、そうとは知らず、人間を抹殺しようとするのは、人間ではないロボット(新造人間)のキャシャーン(アニメ版)が、ロボットのブライキングボスに歯向かって人間を守ろうとするのと、対になっている。ロボット(新造人間)がロボットを滅ぼし、人間が人間を皆殺しにする。このモチーフが持つ本質から言えば、二人(アニメ版のキャシャーンと映画版のブライ)の立場に絶対的な違いはない。逆向きの二つのベクトルは、地球をひとまわりして同じものをさしている。だからキャシャーン(アニメ版)の苦悩は、『CASSHERN』に於いては、最後の最後にブライに降りかかる。つまり、自分という存在が、何をもって倒すべき相手と守るべき仲間を見極めていたのか、その拠り所が彼の中で混乱する。人間ではないキャシャーンが人間を守る理由が客観的にはどこにも存在しないように、実は人間だったブライにも、全人類を敵視しそれを抹殺する理由が存在しない。なぜなら、ブライは、良い人間と悪い人間、味方になる人間と敵になる人間を選り分けたのではなく、原則、人間と言う存在そのものを否定したにもかからわず、彼自身が、まさにその全否定の対象である人間だったからだ。彼自身が糾弾した、蛮虐行為を繰り返す恐ろしくごう慢な人間が作り出した「戦い生き残るために生きる世界」と、「彼の大義によって人類が抹殺されて行く世界」とは、彼が人間だったという事実によって、イコールになってしまう。人間でないものが人間を一掃しようとしたのではなく、人間が人間を一掃しようとした。そこに潜行する「力学」は、客観的には同類であるはずのキャシャーン(アニメ版)とブライキングボス(アニメ版)を対立させる「力学」と同じものだ。すなわち、本質としての人間の振る舞いに、決定的な影響を与えるのは、客観的事実としての自身の身体、つまり、外部的な分類による規定などではなく、主観的事実としての思い込み、すなわち「自分自身と世界との虚構された関係性」だけなのだ。それぞれの人間がそれぞれに抱えた「自分自身と世界との虚構された関係性」は、錯綜し、軋み合い、時に砕け散る。その軋轢こそが「人の業」であり、それこそがこの『CASSHERN』のモチーフだ。



演説じみたセリフや、禅問答風の対話、説明的なセリフは、映画と言うより演劇に近い。全体に渡って演劇的な作品だ。登場人物が突然舞台の中央に歩み出て、「お前は、戦争と言うものを知らない!」などと叫んでいそうな映画だ。だが、それはいい。単にスタイルの問題であり、作者の好みの問題だからだ。俺は演劇のわざとらしさ(デフォルメ)は嫌いじゃない。この作品は、モチーフはヘビィだが、スタイルはファンタジーだ。ファンタジーには、日常のリアルはなくてもかまわない。ただ、作品が本質を穿ってさえいればいい。

ストーリーは、果てしなく気が滅入って行くばかりで、もう、やりきれなくなるだけだ。モチーフは、さっきも言った通り「人の業」だ。しかも、思いきり真正面から。そりゃ、そんなの見せられたら誰だって気が滅入る。



この作品で、一番の映像作品的見どころは、汚染された森の中で鉄也とルナが語り合うシーンだろう。三橋達也が登場するまでのあの数分間のシーンは、よく工夫され、センスに溢れている。極端なことを言ってしまえば、この作品のその他の部分は、ただ、あのシーンをより際立たせるためだけに存在しているのではないかと思えてしまうほどだ。それくらい、あの汚染された森の中のでの対話シーンは秀逸で、見事だ。

もう一つ、これは見どころと言うよりも、単に俺の趣味だが、冒頭の寺尾聡扮する東教授の講演だ。俺は、あの寺尾聡の声に、しびれた。寺尾聡の声はいい。


(アナトー)2006.03.08


©  Annatto Shiquiso

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