「21グラム」について
【注意】

ストーリーについては、ほとんど触れてはいないが、『21グラム』をこれからご覧になろうと思っている方は以下の文章は読まないことをお勧めする。映画体験は、何も知らないところから始めるのが一番だから。


【本文】

ストーリー自体に新奇さはない。この映画のキモは編集だ。言ってしまえば、「メメント」をさらに複雑、コマギレにしたような編集。観客は時系列無視の断片を見続けることになる。だがそれは、惑わしや新奇さを狙ったものではないだろう。一般に映画は、小さなエピソードの「小さな結果」を積み重ねながら、最後に作品全体の大きなエピードの「大きな結果」を提示して終わる。この作品は違う。観客に提示される出来事は、細かく時系列を無視(前後)しているから、映画の中の様々な「小さなエピソード」の結果を、観客は先に知ってしまう。例えば、観客は、ショーン・ペンとナオミ・ワッツが二人してベッドにいるようなシーンを一瞬見せられた後で、二人がまだ打ち解けずにぎこちない会話を交わすシーンを見せられたりする。つまり、この二人の関係がどこまで進展するのか、それともすれ違ってしまうのか、というような推測や期待や不安は、観客には一切許されていない。では結果を先に知らされてしまった観客にとってそれが不満になるかと言えば、少しもそうはならない。むしろ逆で、「結果」を先に知っていることで、「経過」の理解に意識を集中できる。これは、ちょうど、一度観た映画をもういちど観なおしているときの感覚に似ている。誰でも「結果」を先に知っていれば、あとで知らされる「経過」は理解しやすい。だから、編集の時系列的な複雑さは、作品の理解を煩雑にするどころか、かえって分かりやすくしている。これは、一つの発見だった。

この作品が、エピソードを細切れにして、時系列を無視したのには理由がある。
この作品には実質三人の主人公がいて、彼等は最初、お互い全く無関係なそれぞれの「物語」を生きている。つまり、作中の出来事を時系列に沿うように並べた場合、映画の中盤あたりまでは、主人公が違う三つの「物語」があるということだ。しかもこの作品ではそれを一つの「物語」として語らなければならない。これはかなり厄介なことだ。誰の「物語」から始めるのか? それぞれの「物語」をどこまで語るのか? どこで誰と誰の「物語」をつなぎあわせるのか? どこで三人を「揃える」のか? 悩み始めると止まらない。

いわゆるオムニバス形式の作品は、どうしても、作品全体が間延びし、なによりそれぞれの「物語」の主人公たちが「作品内の同じ時系列で存在している」という感じが弱まる。それぞれの「物語」が、それぞれの主人公の前口上というか、「設定説明」のようになり、それぞれの「物語」の間に断絶が生まれる。それは、連続ドラマの1話ごとにある断絶と同じで、例えば2時間の作品が持つ、その2時間という実時間の流圧を確実に損なう。オムニバス形式にすると、どれだけ「これはひとつながりの物語だ」と主張しても、観客は、ある主人公の「物語」一つが終わった時点で、一息ついてしまう。つまり、勝手に一区切りつけてしまう。そしてこの「勝手」は、観客には制御できない。オムニバス形式では、どれだけ連続ものを謳っても、それぞれの「物語」がパッケージされてしまう。そして、一旦パッケージされてしまえば、それは別物として区分され、観客の側にパッケージごとの価値の偏重を生む。例えば、最後に見た「物語」の主人公が、最後に見たという理由だけで、より感情移入されやすい、というような。

しかし、それぞれの主人公の「物語」が終わる毎に観客が一息ついてしまうと、この作品(「21グラム」)が意図したものは表現できない。三人の主人公の誰もがこの映画作品のただ一人の主人公であり得るために、三人が関わる一つの「物語」は、それぞれがそれぞれの「物語」の中だけで生きていた(と思っていた)時点からすでに始まっていなければならない。三人の主人公は、三人が一堂に会する「物語」の中でもやはり彼(彼女)こそが主人公でなければならない。観客は、三人の主人公の、どの一人が主演で、どの二人が助演なのか、作品の最初から最後まで決めることはできない。それがこの作品の意図であり、一つの狙いだ。つまり、この作品は始まりから最後まで、彼(彼女)一人が主人公の「物語」として、鑑賞することができなければ、つまり、どの主人公の視点から見ても、彼(彼女)の「物語」の中に、後から二人の脇役(残り二人の主人公)が参入してくるように見えなければ、全く関わりのなかった世界(「物語」の中)で生きてきた三人が、ある事故をきっかけに近付き、絡まり、きりもみしながら、ある結末へと向かうことを、ここまで見事に表現することはできなかったはずだ。それぞれの「物語」を順々に提示するのではなく、並列的に、最初から最後までそれぞれの「物語」を「未決」のまま描ききったことが、この作品に勝利をもたらした。

ならば、オムニバス形式はやめて、たとえば5分ごとに別の主人公の「物語」を提示し、それを、繰り返していけばいいのか? ちょっと想像してみれば分かるが、もしそんなことをすれば、観客は異常な集中力と忍耐を要求されることになる。時系列にそって進む三つの「物語」を細切れに見せられるということは、これからどうなるか分からない三つの「物語」を全て心に留めておかなくてはならないということだ。三人の人間から交互に少しずつ別々の物語を読み聞かされるようなものだ。そこで、この作品は「先に結果を教える」という手法を思い付いた。先に「結果」を教えて、そのあとで「経過」を伝えれば、観客は「これがどうなるのか」があらかじめ分かっている分、今目の前で展開されている状況を理解しやすくなる。そうやって、少しずつ「結果」を見せ、あとで「実はこういうことがあってさっきの結果があったんです」と説明することで、一度しか観てないものを、実質二度観せるような効果を生んだ。この手法は映画的にはありふれたものなのか、この作品の発明なのかは知らない。どちらにしろ、この編集は見事だ。先に「刺激的」な「結果」を少し見せて観客に印象づけ、そのあとで「退屈」な「経過」を提示し、物語に肉付けする。そうすれば、観客が「退屈」することも防げるし、先に書いたように、二度見だから理解もしやすくなる。

しかし、この「時系列無視の細切れ編集」は、映画手法の巧みさのアピールというよりは、作者(監督)の表現に対する考えが反映されているように思えた。つまり、「結果」よりも「経過」であり、「最後どうなったのか」ではなく「いかにしてそうなったのか」が重要なのだ、と。人間の本当を描いて、結末がありふれたものになっても、それはそうなんだから仕方がないし、結末が分かっていたとしても、作品に力があれば、「物語」は持続できる。陳腐な「どんでん返し」や、奇をてらった「意外な結末」の為に作品を作るわけでないのだから、「結果」が先に分かったとしても何も問題はない。

三人の主人公の、誰が正しく、誰が間違っているのか。あるいは、どの主人公の立場にもっとも共感を持ってほしいのか、ということをこの作品は主張しない。むしろ逆に、三人の主人公の立場や言動にはそれぞれ共感すべき理由があり、見いだすべき意味があり、あるいは忌むべき側面があるが、それらは、比較したり取捨したりできるものではない、ということをこの作品は伝えようとしている。まず俺は、そこにとても共感を覚えた。さらに、三人の主人公は、心臓を提供された者、事故で家族を失った被害者(あるいはドナーの妻)、そして交通事故の加害者という役回りを与えられ、それによって、お互いに関わりを持ち、それがこの作品の「ネタ」にもなっているわけだが、実はそんなことは表層的なことで、人間はそんな「押し付けられた役回り」だけを生きる存在ではないことを強く主張していて、そこにまた強く共感した。主人公それぞれの「生活者としてのしんどさ」をきちんと描いてくれているおかげで、犯罪者とか病人とか金持ちとか未亡人とか言った「役回り」が、人間にとっていかに表層的なものかを実感でき、そんなもので人間を判断・区別することの安易さや愚かさを改めて思い知らされた。

ちなみに、タイトルの21グラムは、人が死ぬ瞬間に失う重さのことだと、最後にショーン・ペンのモノローグが教えてくれる。


【蛇足】
「マルホランド・ドライブ」以来、ナオミ・ワッツのピンピン乳首も拝めて、久しぶりに良い映画を観たぜ。イヒヒ。(48イヒヒ、いただきました。by下衆ヤバ夫)

(2005.09.04)


©  Annatto Shiquiso

HOME