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人だけが終わりを知っている。
神は知らない。
なぜなら、人は死に、神は死なないから。
人だけが終わりを知っている。
獣は知らない。
なぜなら、人は死に、獣は死なないから。
運が悪ければ(良ければ?)、存在する全ては、世界の終わりに立ち会うことは出来る。だが、誰も、微少なウィルスも、獣も、人も、神も、星も、宇宙でさえも、自身が消滅してしまった後の、その世界に立ち会うことは、絶対に出来ない。
〈私〉が存在しなくなった、その世界を、確かな現実として認める、その能力、その知恵が、人の人たる由縁だ。
僕ら人は、自身の死によって、今、この目で見ている〈世界〉が消滅、つまり終わってしまうことを知っている。なるほど、〈世界〉は僕らの生き死にに関わりなく永遠かもしれない。だが、〈私〉が存在している、つまり、〈私〉にとっての、真の意味(いや仮の意味か?)での〈世界〉は、遅くとも、ほぼ百年後には〈私〉の死と共に完全なる終焉を迎える。
肉体は子に受け継がれ、存在し続けることが可能だ。その意味で、人以前の存在は、皆、永遠だ。人でさえ、肉体に関して言えば、不死なのだ。だが、人は皆、肉体ではなく、〈私〉として生き、存在している。この事実は、人であれば、誰も否定できない。そして、この〈私〉は、いくら子に遺伝子を伝えようとも、ほぼ百年で完全に消滅するのだ。
遺伝子は〈私〉を伝えることをしない。
人の世界とは〈私〉が認識している世界である。と同時に、人は〈私〉が決して認識することのない世界の存在を知っている。
そう、人だけが、世界は〈私〉の存在なしに、有り続けるという〈現実〉を知っている。
これは、つまり、どう言うことなのか?
人の、〈私〉という意識は、この世界(宇宙)に連綿と続く〈存在〉の流れから完全にはじき出されてしまっているのだ。
世界(宇宙)は、その始まりから、一度も途切れることなく〈存在〉を伝え続けてきた。星の死は新たな星の誕生を呼び、生命は連綿と遺伝子を受け継ぐ。つまり、宇宙はこれまでずっと〈終わり〉を迎えることなく存在し続けてきたのだ。
だが、そうではないものが現れた。そう、僕ら人の〈私〉と言う意識だ。
人の〈私〉と言う意識は、どんな方法でも、後の世代に伝える事が出来ない。〈私〉にとって肉体とはいわば〈宿主〉であり、その〈宿主〉である肉体が滅びれば、〈私〉は完全に失われる。つまり〈終わる〉のだ。
人の意識が、〈私〉の存在しない世界(宇宙)を理解・認識できるという事実は、〈私〉が完全に消滅することを理解・認識できるとこと対になっている。別の言い方をすれば、人は、世界の存在が〈私〉の存在とは無関係だと言うことを、消滅する〈私〉の存在を認識したことで、気付いた。
例えば、猫や猿などの動物にとって(あるいはミミズでもいいが)、世界(宇宙)とは、常に彼等の意識が見て、感じているそれであり、それ以外には、有り得ない。動物たちが世間知らずだと言っているのではない。彼等は、彼等が見ている世界の根拠が、彼等自身にあることを理解・認識していないと言う意味だ。ちょうど、我々がテレビ番組を見るとき、画面に登場する事物の他に、実はテレビカメラがその場に間違いなく存在しているにもかかわらず、ついその存在を忘れてしまうように、彼等動物たちは、彼等の〈世界〉が、実は、彼等自身の存在を前提にしているという事実に全く気付いていない。
動物は、内的世界と外的世界が未分化なため、内的世界の〈動き〉が直に外的世界の事象に反映されたり、あるいはその逆が起きたりする。すると、彼等の生きている〈世界〉では、ある個体にのみ由来する内的世界と、客観的な外的世界という区分けが全く意味をなさなくなる。それぞれの個体が、それぞれの〈世界〉を、自分自身を〈込み〉にして、それこそが〈普遍的な世界〉だと認識して生きているのだ。そこでは、「〈私〉が存在しない世界」という視点は決して生まれない。
これは、動物たちが〈私〉という意識を持っていないからではない。〈強度〉の違いはあれ、人以前のあらゆる生命には〈私〉つまり自分自身という認識は必ずある。そうでなければ、生命は自身の存在を維持することはできないからだ。ただ、世界のあらゆる現象を、自身の内的現象と明確に区別することができない為に、〈私〉に〈起きたこと〉が、無条件で世界の普遍的な現象へと翻訳される。為に〈世界〉と〈私〉とが、殆ど同義になってしまっているのだ。
このことはある意味真理なのだが、人以前の生命にとって、世界とは常に〈私〉が参加しているそれであって、〈私〉の参加していない世界は決して有り得ない。人以前の生命にとって〈世界〉は〈私〉が参加(存在)していることで、初めて〈世界〉として存在する。だがこれは唯心論とは少し違う。人以前の生命にとって、〈私〉が存在するかしないかという問いは初めからない。それは変更可能な条件にはならない。人以前の生命にとって〈私〉は常に存在しているのだ。そして〈私〉は常に〈世界〉の中にある。絶対揺るぎない存在である〈私〉は、必ずいつも〈世界〉によって包まれている。つまり、人以前のあらゆる生命にとって、〈世界〉の永続性は、〈私〉の永続性(と言う誤解)によって、いわば、逆向きの矢印によって保証されている。誤った主観によって、正しい客観的事実を言い当てているのが、人以前の生命の世界認識なのだ。
2001.12.11
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