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古来より人間が思い描いてきた「神」は、結局のところ、単なる「超人」でしかない。圧倒的な「能力」や「知識」を備えてはいても、それはあくまでも「人間」の一形態としてそこにあった。自然現象に人格を与えた場合でも、人間の一生に「意味」をもたらす「意図する何者か」であった場合でも、それは容易く「彼」や「彼女」と呼べる、人間の延長線上の存在であった。
そのような「神」の生みの親である人間は「生命教」の絶対信者である。よって、人間によって生み出された「神」は、必ず「生命」を司り、あるいは超越する能力をもっており、「生命」というものに特別の「価値」を認めている。「神」は、「生命」に関わる様々の超人的な能力によって、人間からは「究極者」と見なされる。
「神」が「生命」というものに絶対的な価値を置き、そこに一つの「究極」を認めるのは、「神」の生みの親である人間が「生命現象によって成立している存在」だからだ。
「全存在」にとって、「生命現象」は、単に一つの現象に過ぎない。恒星の燃焼や水の凝固を引き起こす物理現象と生命現象との間に価値の優劣はないのだ。その意味で言えば、人間の「神」は、ただ、「生命教」の信者であるところの人間にとってのみの「究極者」である。人間の「神」は人間に阿すぎているのだ。
「全存在」にとっての「神」とは何か? 「神」を、「我々の側ではない向こう側にいるモノ」や「こちら側に対して、絶対的に相対化されるナニモノカ」であると考えるなら、「全存在」にとっての「神」は「無」である。ここでいう「無」とは、「不在」や「消失」のことではない。「全存在」の有限性と対峙する者としての無限性であるところの「無」である。「無」こそが究極かつ真の「神」であり、その真の「神」の前では、人間の「神」もまた、滅びを秘めた単なる有限者でしかない。
2007.09.02
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