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○「超越神=The Super God」 …いわゆる人類が想像する神ではない。生命現象を含みかつそれ以外の現象の全存在を相対化できる存在の「象徴」。それはすなわち、真の意味での「無」である。
○「人間」…生命現象によって意識する存在としてあるもの。全宇宙(全存在)を「生命」というものを通して、もしくは「生命」を基盤にしてしか認識することが出来ない。すなわち、人間の想像する全宇宙(全存在)とは「愛」「死」「善」「悪」の4つの基本要素からなるが、それらは全て、人間が「生命」という現象に依っていることから生ずる「錯誤」であり、「限界」である。
○「人間の神」…人間の想像する「神」は、それを発想する人間が「生命」という現象に「汚染」されているため、「神」もまた生命体の一種にしかなりえない。人間の言う「神」とは「超人間」のことであり、真の神であるところの「超越神」とは違う。人間の「神」は、「生命」という枠組みの内側にあるために、「生命」というものに対する「態度」が「神」のとても重要な要素、もしくは性格、素養として取り扱われる。それによって、「善」や「悪」が「神」のパラメータに付与される。「超越神」は真の「無」であるから、「善」も「悪」もない。パラメータなど付与できないのだ。
○「善と悪」…「生命」に依っている人間によって生み出された概念。だから、全ての善悪の判断基準は、突き詰めれば「生命原理」にその根拠を求めることになる。
○「愛」…言わずと知れた「生命」現象のもっとも根源的な発動。「生命原理」の根幹をなすもの。超越神にとっては、一現象にすぎない「生命」現象に付随して現れる精神的、肉体的運動に過ぎない。
○「死」…「生命」と対をなす概念。「生命」とはコインの裏表のような関係であり、極論すれば「生命」と同じ意味。「生命」の主体にとって、自身の「死」は「無」と等しいが、それは当事者としてのその主体にとってのみ言えることであり、厳密な意味で「死」と「無」はイコールではない。真実の「無」は、「生命」に依った存在世界の「外」にある全存在世界の、さらにその「外」であるとイメージすることが出来る。ただし、ここでいう「外」は、わかりやすくイメージするための喩えであり、実際の空間的な「外」を意味しない。「存在」である我々は決して「無」とは接触できないが、「無」は全ての存在の「前提」であるという意味で、全ての「存在」に「内包」されている。すなわち「無」こそが「超越神」である。それに対して、「死」は、人間の生み出したフィクションであり、「見方」「視線」に過ぎない。
○「輪廻転生」…「生命」現象のウチにとどまることが「存在」であるとしか考えられない人間が作り上げたファンタジー。分子や原子の使い回しという物理学的な意味での「輪廻転生」ではなく、ある固有の「生命」がリサイクルされるという意味での「輪廻転生」は、「生命」に「汚染」された人間の蒙昧である。
○「死後の世界」…存在することは「生命」現象のうちにとどまり続けることだと思いこんでいる人間が、妄想する、生が延長された世界。肉体の死は厳然たる事実としてそこにあるために、その死せる肉体とは別に、「自分」というものを付託するものとしての「魂」を創造し、それに不死を与えた。「不死の魂」によって、人間は真の意味での「死」を回避し、偽りの安心を得た。「死後の世界」とは、死せる肉体と別れを告げた不死の魂が向かい、とどまる領域。もしくは、次の肉体を得るまで待機する領域。
■もし仮に「超越神」に人格を与えるなら、その「価値観」は、決定的に人間のそれとはすれ違う。人間の世界認識の中心に存在する「生命」という現象も、「超越神」にとっては、全存在の要素の「ある一つ」でしかないからだ。「生命」原理主義の人間とは相容れないものが「超越神」にはあり、場合によれば、決定的に対立することになる。
(2008.03.10)
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