死に関するの覚え書き
あらゆる生命体は死ぬ。
生命は何億年という歴史の中で、なぜ、この死を克服できなかったのか?

この宇宙は、原子のような微少なものから、例えば地球の大気や、星の軌道など、すべてに於いて、「安定」しようとする。宇宙の膨張も、激しいカオスから空疎な安定への長い旅に他ならない。

生命体を遺伝子レベルで見ようと、個体レベルで見ようと、あるいは社会レベルで見ようと、やっていることはただ一つ。自身を取り囲む環境の安定・維持だ。課程はともかく、最終目的はいつも必ずそれだ。

生命体の老化について、遺伝子の突然変異や、フリーラジカル(活性酸素)や、あるいはテロメアがその原因として注目されている。だが、ここで論じたいのは、そんな〈結果としての原因〉ではない。老化の原因が何であろうと、それを回避できなかったのはなぜかということだ。つまり、生命は、どうして〈老化〉を回避するように進化してこなかったのか?

生命体を、非常にゆっくりとした込み入った化学反応体だと見れば(実際そうなのだが)、反応を長引かせる最も簡単な方法は一つだ。反応をする化学物質を入れるビーカーを大きくすればいい。つまり、生命体は、体を大きくすればするほど、化学反応の終結、つまり死を遅らせることが出来る。実際、今、この地球上に存在する生命体の多くが、この手法を用いて寿命を延ばしている。大型動物ほど寿命が長く、小動物ほど短い。

もう一つの方法は、個体というレベルを見捨てるやり方だ。ドーキンスの言うとおり、利己的な遺伝子は、生命体の個体を、乗り継ぎ電車のように次々に乗り換えながら〈生き続ける〉。だが、この方法は、利己的ではあっても、常に遺伝子にとって悲観論から出発しているという点で、完全でも最善でもない。遺伝子は、自身が消滅することを前提に、仲間を増やし、子孫を残すことに励む。つまりコピーづくりに励む。そして、動物などなら、そのコピーですら、完全に自分自身と同じではない。つまり、動物の場合、遺伝子ですら〈死ぬ〉のだ。

だが、これは〈結果〉なのだ。つまり、環境の変化などによって、全く自分自身をコピーしなかった遺伝子、あるいは、完全に同じコピーしか残さなかった遺伝子は、淘汰されてしまっただけなのだ。遺伝子がそうしようと思ったのではなく、ただ、そうなってしまったのだ。ある者は旅客機に乗った。別の者は乗らなかった。仮に旅客機が墜落して乗客が全員死亡したとしても、乗らなかった者が賢明だったのかと言えば、それは関係ない。それと同じだ。

これだけの歳月を掛けて進化してきた生命体が、結局、老化とその後にやってくる死を回避できなかったのは、おそらく、もともとの基本設計に依るのだろう。つまり、どうしても〈劣化〉してしまう基本設計なのだ。だから、寿命を延ばす事は出来ても、〈死〉そのものを回避することは不可能なのだ。

生命体のある個体が、永久に老化せず、〈死〉から自由であることは、理屈の上では可能だ。見かけ上一つの個体に、二つ以上が内在されていればいいのだ。つまり、個体内の一人が老化していくと同時に、別の一人が成長するというサイクルを永遠に繰り返せば、その個体は死なない。だが、これは、すでに細胞レベルで繰り広げられている事だ。人間の細胞は7年で全てが入れ替わるという。つまり少なくとも8年前の私は、今の私とは物理的には全く共通点がない〈赤の他人〉なのだ。にもかかわらず、私は8年前も今も同じ私だと感じている。では、なぜ、細胞はその秘密の交代を永遠に繰り返さないのだろう?なぜ、ある一定期間が過ぎると交代をやめてしまうのだ?

結局、老化・死の謎はここに戻る。なぜ、生命は個体を〈放棄〉するのか?遺伝子の突然変異でも、テロメアでも、フリーラジカルでもその〈本当の理由〉は説明できない。つまり、生命はなぜ、それら老化の原因とされるようなものを回避するような進化の仕方をしなかったのか?ターミネーターの予備電源のようなものを生命はなぜ用意していないのか?

おそらく、そう言うものを準備するよりも、コピーをつくってばらまく方が、効率が良かったのだ。生命体は、出来るだけ楽をしようとする。安きに流れるのがあらゆる存在の本質だ。

生命体が、個体の維持ではなく、コピーに力点を置いたのは、結局、個体と言う捉え方が、生命体にとって(その当時は)二次的なものだったからだ。これはドーキンスの利己的な遺伝子に通じる。つまり、生命体は個体という括りを、ちょうど我々が今、環境というものに持つ認識程度にしか、〈認識〉していなかった。遺伝私的には今もそうだろう。つまり、我々は、住み良い環境が維持されるなら、多少の変化は受け入れる。季節が変わったり、場所が変わったり、あるいは近所に工場が出来ても、許せる範囲なら許す。生命体にとっての個体とはそもそもそう言うものだった。だから、維持・安定には励むが、絶対的にそれにこだわる必要はない。遺伝私的には、同じような環境を別に用意できればそちらに移ることにやぶさかではないのだ。

生命体にとって〈個体〉が重用視されだしたのは、いつか?
答えは簡単。我々人間が登場してからだ。
他の動物も生き延びるために必死だが、彼等は死を恐れない。
彼等には、恐ろしいもの・ことの結果としての死があるのであって、その逆ではない。人間以外の生命体にとって、〈死〉はどこまで行っても〈結果〉でしかない。そして〈結果〉である以上、それは決して〈現実〉にはならない。つまり、本質的に、人間以外の生命体にとって〈死〉は存在しない。つまり個体と言う括りの〈死〉はない。

そして、ここが大事だが、生命にとってはこれこそが〈真実〉なのだ。〈個体の死〉が存在しないということが。正確に言うと、私という個体の死だ。そんなものはない。

生命体にとって〈私という個体の死〉が絶対的な何か、ではないとこは明らかだ。分かりやすいので人間の場合を考える。人間は、たいていの場合、自分の血を引いた子供の存在に固執する。子供を作らない持たないという考えの人もいるが、こちらから見ると話がややこしくなるので、反対側から話を進めると、大概の人は、自分の子供を持つことで〈落ち着く〉。この〈落ち着く〉と言う現象は、いろいろな意味を持つが、一言で言うと、役目を終えたと言う感覚から来ているのだ。誰が、どんな理由を持ってこようとこれは間違いない。もちろん、人間の子供は成長するまでに何年も掛かるので、社会的にはしばらく面倒を見なくてはならず、とても〈役目を終えた〉とはならないが、生命体的には、間違いなく〈終えている〉のだ。既にコピーは存在しているのだから。既に存在するコピーを一人前にする方法はいくらでもあるが、自分のコピーを作るには、必ず自分自身がどうにかしなくてはならない。つまり、生命体は、本質的に〈個体としての存在〉など軽く見ているのだ。我々人間の意識が持っているような〈唯一無二の〉と言った、りきんだ認識はない。

してみると、〈個体〉と言う認識は我々人間の意識に取り憑いた〈妄念〉のようなものだと分かる。そしてこの〈個体〉つまり〈私〉という認識が強烈に作用するせいで、我々は〈死〉に過剰に反応することになる。結局それは、〈私〉が消滅することに他ならないからだ。ところが、何度も言うように〈私〉とはそもそも何者だと問われれば、ただ〈私〉だと、私自身が答える以外に方法はない。何年何月のあるときに生まれ、現在に至る存在としての私は、物理的には、7年ごとに丸々入れ替わってしまう、あやふやなものでしかない。つまり、宇宙人が生まれたばかりの赤ん坊の細胞の一つに特殊な染料で印を植え付けても、赤ん坊が成人するころには、完全にその印は消えてなくなってしまっているのだ(遺伝子のようにコピーされるのなら別だが)。つまり、客観的な物理的世界に、一貫した〈私〉などもともと存在し得ないのだ。〈私〉とは単に、私自身と私を知る者達の記憶、もしくは役所や企業のカスタマーセンターのデータバンクの記録でしか確認できないものなのだ。

〈死〉とは人間にだけ意味を持つ、幻だ。
〈死〉はいつも〈私〉とセットになっている。
〈私〉の存在しない人間以外の生命体には、だから〈死〉は訪れない。


(補足)

チンパンジーやオラウータンにも鏡に映った自分自身を認識する能力はあるらしい。だが、それはどこまで行っても〈自分〉なのだ。〈私〉と言う認識を持つには、自分自身を一旦〈他者〉にして、そこからかえって来なくてはならない。チンパンジーの自己認識は、人間のそれと違って〈行ったきり〉だ。
これについてはまた別の機会に。

2001.10.04


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