死んだら死にきり
釈迦が言いたかったのは、輪廻なんてないんだ、魂なんてないんだってことだ。輪廻とか、魂の存在が当たり前とされる時代に生きていた釈迦が、人間に課せられた、生まれては死に、生まれては死にを繰り返す輪廻の問題をクリアするために散々苦労して到達したのがそれだ。仏教の教えの中にしょっちゅう出てくる、自分(という魂)みたいなもんは全部マボロシなんだってのはそういうことだ。要は、死んだら死にきりだよってことを釈迦は言いたかったんだ。現代の感覚からするとなんでもない話だ。死んだら死にきりだと考えてる人間は大勢いる。というか、いわゆる科学的な教育を受けた人間の殆どは、理念的にはそう思っている。けど、釈迦が生きていた時代は、魂(アートマンとか呼ばれたりする人間存在の本質みたいなもの)が存在しないなんてことはまったくのナンセンスだった。「学問」を修めた人間ほど、魂の実在に関するアレコレについて、多くを「知って」いたはずだ。当時の人間たちにとって、魂が実在するのは動かしがたい事実、もっと言えば「真実」だった。

誰かが死に、その死んだ誰かの死体はやがて腐って消滅する。自分自身についても全く同じことが起きることを、ある時人間は理解するようになる。自分が死ぬことを、人間だけが知るんだ。けど、現に今こうして「実在」している自分自身が消えてなくなると言うのは、絶対に体験不能なだけに、人間にはどうしてもそれ(自分が実在しなくなること)が受け入れられない。どうやっても無理だ。その受け入れられなさが、逆に、魂の実在への「確信」を強化する。肉体とは別の、魂という「実在」をでっち上げることで、人間はその解決不能な難問(死の問題)を棚上げした。

意識を持つようになった人間が、死を経由して、魂という概念にたどり着くまではすぐだ。自分が存在すると言う感覚から、肉体に宿る魂という考え方までは、わずかツーステップの道のりで、しかも分かりやすい。輪廻の問題をなんとかしたいと腐心した釈迦が悟ったのは、そもそも、輪廻の因子となる「魂の実在」自体がとんでもない間違い(蒙昧)なんだということだ。だから釈迦は、弟子達に、葬式みたいなしょーもないもんは、輪廻にとらわれた(つまり魂の実在という妄想に取り憑かれた)俗人に好きにやらせておいて、お前たちは頑張って一刻も早く悟りを開きなさい、みたいなことを言ったんだ。死んだ人間なんてほっとけ、死んだ人間に何言っても、もう死んでるんだから、意味がないし、時間の無駄だってことだ。これって、当時も、そしてたぶん今も、結構ラジカル(というか身もふたもない)な考え方だけど、俺は大好きだ。

けど、魂の実在を否定すること、魂が実在しないことを納得させることは、釈迦の時代も、そして今もとてつもなく困難だ。誰にも教えられなくても、人間はみんな、「肉体に宿る魂」という(とんでもない勘違いの)「仕組み」(というか屁理屈)に「気付く」からだ。生まれつきのものすごい馬鹿じゃない限り、自分の肉体には自分という魂が宿っていると言う感覚を、人間は放っといても持ってしまう。人間の、世界体験の全てが、魂の実在を証明してるかのように、人間には受け取れてしまうからだ。これは人間の「意識」が生来的に抱え込んでる「呪い」だ。ていうか、まあ、意識と言うのは、自分が実在しているということに「気付く」ことなんだから、そもそも「意識」自体が「呪い」なんだ。ただ、人間以外の動物が「意識」を持っていても、人間みたいに「呪い」にはならない。なぜか? 人間以外の動物は死なないからだ。正確に言うと、動物は自分が将来的に必ず死ぬ存在だと言うことに絶対に気付かないからだ。「俺は実在して、なおかつ俺は消滅する」という解決不能の難問に遭遇した時、人間の「意識」は「呪い」に変ぼうし、ありもしない「魂」に取り憑かれることになる。

一等最初のもっともシンプルでなおかつもっともアグレッシブな仏教の本質は、人間が感覚によって実感する自分自身の「実在感」を、理念によって否定すること、人間が確かにそうだと感じてるその「現実」は、本当はウソなんだと言うことを、理詰めで徹底的に否定することにある。だから、本来の仏教が宗教ではないという指摘は当たっている。仏教の究極とは一切の宗教の無効化だからだ。宗教というのはなにも「〜教」と名の付くものに限らない。中国の共産主義もそうだし、アメリカの自由主義だってそうだ。極道の任侠道も、グリーンピースの動物愛護も、フェミニズムも、とにかく、「外」の人間がみたらちょっとおかしいんじゃねえかって思えるようなものは全部宗教に含まれる。もちろん、今ある日本や中国やチベットの仏教だって、釈迦にいわせりゃ全部、否定の対象となる宗教だ。科学だって、科学のなんたるかを理解してない人間にとっては宗教になってしまっている。これらに共通してるのは、本来、一個の人間として生きる分にはまったく必要のないのに、それに巻き込まれた途端、それがあたかも人間存在の本質に関わることででもあるかのように思えてくる力学をもっているところだ。いわゆる共同幻想だな。

仏教が、その名前とは裏腹に、釈迦の本意ではないただの宗教に先祖返りしてしまった理由は簡単だ。一つは、釈迦の弟子達が、釈迦の言ってることが本当の意味で理解できなかったからだ。それだけ人間にとって、「魂=本当の自分」理論はなじみ易くて強力なんだ。もう一つは、釈迦の実利主義的な性格のせいだ。釈迦が心配したのは、死んだら死にきりの人間が、その「真理」を知った時に暴走しやしないかってことだった。魂の存在は、人間の究極の蒙昧ではあっても、実際「抑止力」としての効果を人間にもたらしていることは間違いがない。その「抑止力」が失われた時、人間は、欲望のままにこの人間自身を含めた世界を荒廃させてしまうに違いない。釈迦はそう考えた。だから、人間と言うのは死んだらしにきりで魂なんてモノはないんだってことを理解できそうもない連中や、死んだら死にきりなんだから、生きてるうちに好き勝手やった方がいいやって思うような連中には、すでに一般的でしかも「抑止力」としての機能をもっていた魂とかあの世とか生まれかわりとかの話をアレンジして、脅したり喜ばせたりさせた。理解力の乏しい小さい子供を、親がファンタジー(幽霊話や、怖いおじさん話)で、しつけるようなものだ。で、そのファンタジーの方が、人間にとっては実感に則してるし、イメージも浮かび易いし、通りもいいから、そっちばっかりが、ばあーっと広まって、いわゆる肉体の滅びたあとの人間のアレコレについて教えを説く、ありふれた宗教になってしまったんだ。

坊主が葬式であげるお経が、呪文だろうと歌だろうと、生きてる人間に理解できないのであれば、洗濯機のゴトゴト言う音と変わりはない。死んだ人間はお経なんて聞いてない。聞いてないていうか、死んでるんだから、聞くも何もない。真島じゃないけど、死んだら死んでるだけだ。「ありがたい」お経が「ありがたい」のは、生きてる人間にとってだけだ。けど肝心の生きてる人間には、お経が何を言ってるのかはまるで分からない。ただ、「ありがたいお経だってことだから、ありがたいんだろう」ってなもんで聞いている。日本人が、通訳も字幕スーパーもなしで、ヨハネ・パウロ二世の「ありがたいお言葉」を聞いてるのと変わらない。

けど、それじゃダメだ。呪文でも、歌でもなんでもそうだけど、言葉が力を発揮するのは、その言葉を投げかける相手に、言葉の意味が通じるからだ。ファンタジーなんかで出てくる何語だか分からん魔法とかでもそうだ。あれは、例えば、神に通じる言葉とか、精霊に通じる言葉とか、魔物に通じる言葉とかを使ってるってのが建前になっている。今は失われた言葉だから何を言ってるのか分からないけど、その言葉を知ってる(使っていた)神や、精霊や、魔物には言ってることが分かるから、術者(魔法使い)が呪文を唱えると、それに答えて、さまざま現象を引き起こしたり、呼び出されてきたりするわけだ。呪いの言葉にしてもそうだ。そもそも呪いってのは、呪うべき相手に直接投げかけることで、その効果を発揮した。言葉を使い始めたばかりの人間にとって、言葉で表されただけのことと現実とが未分化で、言われただけのことがあたかも現実の体験のように受け取られ、呪いが効果を発揮したわけだ。今でもその名残は、催眠術とか占いとかそういうのに残っている。自分でも信じてないようなものを根拠にした占い(朝の番組でよくやってる今日の運勢的な占いなど)でも、実際言われると、やっぱりどこかで気になってしまうし、つい確認してしまうものだ。人間は、日常なんとなく感じてる「俺が居る」と言うぼわっとした感覚を、言葉を使って、組上げたり、囲い込んだりして、はっきりした形にして生きている。だから、言葉の影響力は、思っている以上に大きい。「自分の実在」を人間に確からしく思わせてるのは、自分の言葉だ。人間の「実在性」の根拠は、言ってみれば、「本人がそう言ってるだけ」ってことだ。だから、人間の奥底のぼんやりした部分に触れるような言葉には、否応なく反応してしまうんだ。

ともかく、言葉がある魔術的な力を発揮するのは、その言葉が投げかかける相手に意味として通じる場合だけであって、言葉そのもの(あるいはその組み合わせ)が、インチキ核融合みたいに未知のエネルギーを放出したりするわけじゃない。誰にも意味が通じない言葉が力を発揮し、武器みたいに訳の分からん波動や光を発したりするのは、少年ジャンプの対決マンガの中だけの話だ。

なんでこんなことを書いたんだっけ? あ、そうだ。葬式の坊主のお経がうざいからだ。あんなのやめちまえ。親鸞もいってるじゃねーか、死ぬまでに一回本気で南無阿弥陀仏って唱えりゃ充分だって。南無阿弥陀仏って要するに、「ああ、阿弥陀さん!」ってことだろ? 絶体絶命の時についうっかり「おかーちゃーん!」とか叫んだりするのと一緒だ。それでいいんだ、それだけが本物だ。あとは、頭で作った嘘っぱちだ。まあ、嘘っぱちでもなんでも、本人がそれで納得するんなら、俺は別にかまわないんだけどさ。けど、それは頭に訳の分からんヘッドギアつけて飛び跳ねてた連中と大差ないんだ。だから、他に害がない程度にやってくれよ。

(アナトー/2005.01.23)


HOME