殺人について
人は、充分その気になれば、簡単に人を殺すし、殺せる。隣室で寝ている老人の頭を叩き割ることは、その辺でチュンチュン言ってる雀を殺すよりずっと簡単なことだ。殺人に特別な才能は必要ない。誰でも出来ることだ。だから、殺人をなにか、凡人には不可能な大それた事のように扱うのは、馬鹿な子供達のためにやめた方がいい。子供はたいてい大それた事をしたがるし、殺人はまた、子供でも簡単に出来てしまうことだから。


■本能の敵

生物は文字通り「生きるもの」だ。だから、その命を奪おうとする相手はすべて〈敵〉になる。人間も同じだ。ここに一人の殺人鬼がいる。理由もなく無闇に人を殺す人間だ。周りの人間にとって、彼は明らかに〈敵〉だ。命を脅かす〈敵〉なのだ。次に狙われるのは自分かもしれない。善だの悪だのと、たかが五千年かそこらの歴史しかないちゃちな道徳の問題を持ち出す必要はない。ただ、〈敵〉なのだ。思想だ、主義だ、宗教だと言ったものも関係ない。ただ、生命としての絶対的に無視できない〈敵〉なのだ。命を狙ってくる〈敵〉は抹殺するか遠ざけるかしなければ、こちらの命が危なくなる。このことは、ミミズだろうと、のら猫だろうと、人間だろうと関係ない、共通の、生物が存在するための大原則だ。しつこいが、生物としての人間にとって、人間を殺すものは、それが猛獣だろうと、悪魔だろうと、そして人間だろうと、ただ〈敵〉なのだ。だから、それに対して不快感や恐怖や、怒りを覚えるのは、生物として当然の反応だ。また、そうでなければ、生き延びてはいけない。
まとめると、人間を含むあらゆる生物は、自身と同類を殺す存在
を、すなわち究極絶対の〈敵〉と見なし、それに対して恐怖と敵意を必ず抱く。これを〈本能の敵〉と呼ぶ。
これが第一点。


■ゴリラの子殺し、虎の子殺し

では、生物は本来、同類を殺さないものなのか?
答えはノーだ。ゴリラの雄が、別の雄が生ませた子供を皆殺しにする話は有名だし、巨大な雄の虎が、若い雌の虎を食い殺した場面をテレビでみたこともある。この場合、この若い雌の虎は助かるために、成熟した雌であることを雄にアピールしたのだが、雄は彼女をただの子供としか見なさずに食い殺してしまう。また、ある水鳥はおそらく口減らしのために自分の雛をくちばしでつついてつついてついには殺してしまう。この光景を初めて目撃すると、かなり衝撃的だ。親鳥について仲良く水の上を進んでいく雛たちの姿は微笑ましいものの象徴のようなものだが、そこで、いきなり陰惨な子殺し(しかも母親によって)が起きるのだから。
そして人間…。言わずもがな、だ。
つまり、圧倒的に優位な立場にいる個体は、同類といえども割合簡単に殺してしまうということだ。
生物には「同類は殺さない」と言う確固としたプログラムが内蔵されているわけではない。
これが第二点。


■頭の敵

人間には言葉がある。人間の社会は言葉によって成立している。言葉は、主義や思想や宗教を生む。そして、言葉は、過去のことも未来のことも、遠くのことも伝えることが出来る。つまり、言葉は、あらゆる時、場所から〈敵〉を連れてくることが出来る。生物としての人間にとっての〈敵〉は、ただ、その命を脅かす存在だ。それは時間的にも空間的にも、常に身近な存在でしかない。だが、言葉が連れてくる、あるいは生み出す〈敵〉は必ずしもそうではない。その存在が身近にいなくても、また、命を脅かす存在ではなくても、人間は言葉によって、つまり、主義や宗教や、過去の歴史や、未来の悲観的予測を張り合わせ、混ぜ合わせることによって〈敵〉を作り出すことができる。だからこの〈敵〉の解釈にはいつも必ず善だの悪だの正義だの卑怯だの、正しいだの間違っているだのといったものがついて回る。なぜならそもそもそう言うもので成り立っている〈敵〉だからだ。
人間は言葉を使って本当は存在しないかもしれない〈敵〉を作り上げた。それはドーナツの穴のようなものだ。正義、善、悪、不正そう言った言葉によって作られたドーナツだ。言葉のドーナツが消えれば、〈敵〉という穴も消える。
これを言葉で作った〈頭の敵〉と呼ぶ。
これが第三点。


■殺したいから殺す連中

いわゆる快楽殺人者や、近頃この国にやたらと増えた些細な理由で殺人を犯す「殺したいから殺す」連中を前にしたときに、我々が感じる不快感、恐怖、憤りは、先に述べた第一点が理由だ。つまり、生物としての人間が彼等を本能的に〈敵〉と見なすのだ。そう〈本能の敵〉だ。が、悲しいかな、大概の人間はそのとき自動的に第三点に考えがシフトしてしまう。つまり、彼等の存在を言葉で作った〈頭の敵〉のどこかに当てはめようとするのだ。そして結局、混乱するはめになる。
人間の生物としての本質が〈敵〉と見なしたものを、頭で、あるいは言葉で作った〈頭の敵〉として理解、判断、説明しようとしても無理だ。なぜなら、そもそも〈頭の敵〉は、〈本能の敵〉の模造品、代用品、替え玉だからだ(その〈頭の敵〉によって人間は高度な社会を築きあげたとも言えるが…)。だから、彼等に対して、悪だとか、反社会的だとか、法律違反だとか、そう言うものをいくら持ってきても少しも不安が収まらないし、すっきりとしない。当たり前だ。震源はもっと深いのだ。で、しようがないので、とりあえず「異常」と言う事で済ます。人間としてまともじゃないということにして、頭の外に放り出すのだ。だが、第二点でも見たとおり、生物が同類を殺すことは、珍しいことではあっても別に異常ではない。「殺したいから殺す」連中は、生物としては異常ではない。だから、生物としての人間は誰でも「殺したいから殺す」者になる可能性がある。
彼等は生物として異常ではなく、人間として未熟なのだ。
人間は社会性の動物として「殺さないこと」を学ぶ。


■殺さない理由

我々が、仮に殺意を抱いても簡単に殺人を実行しないのは、結局、殺してもろくな事がないと知っているからだ。現代は殺人に対して、非常に高い代価を支払わなければならないので、殺人における収支計算をすれば、たいていの場合は殺さない方がよくなる。その証拠に、殺しても何の不利益も被らないと分かっている国家の独裁者や、強力な組織内のボスは簡単に敵対者を殺す。殺人に一切のペナルティが課せられないなら、殺人は問題解決にとても有効だからだ。

が、実は、そう言うことがなくても、大概の場合、人間は殺す理由がなければ人間を殺さない。人間が人間を殺す理由は無数にある、だが、殺さない理由はないように見える。放っておいても大概の人間は他の人間を殺さない。殺さないための理由を用意することもなく、殺さない。
では、そもそも人間は人間を殺さない、つまり殺せない存在なのか?
そうではない。あくまでも殺さないのだ。

人間は、相手の人間が〈敵〉だと認められなければ、進んで殺そうとはしない。〈敵〉ではないものを殺すということは、相手にとって彼自身がすすんで〈敵〉になることを意味するからだ。先にも書いたとおり、生物である人間にとって命を奪いに来る存在が唯一間違いない〈敵〉だ。人を殺そうとすることは「私はおまえの敵だ」と宣言するのに等しい。つまり、彼は放っておけば何もしてこない相手に、彼を殺す理由・動機をわざわざ与えてやることになるのだ。殺すことには常に殺されることが込みになっている。人間は生物の本能としてそのことを知っている。だから、〈敵〉でもない人間を殺すのは気が進まないのだ。古い記憶が、殺すことは殺されることだと、教えているからだ。

人間が無闇に殺人を犯さないもう一つの理由は、感情の伝播だ。人間に限らず、ほ乳類の大多数は、感情を共有できる。とくに群で生活する動物は、一頭の個体の興奮が群全体に広まって大パニックになったりする。つまり、殺されようとする者の激しい感情(恐怖、怒り、悲しみ)は、殺そうとする者の精神に激しく作用し、ひどい重圧となるのだ。殺す者は、殺される者の苦しみを体験する。これが人を殺人から遠ざける。
だが、これは、殺す側の性格や、殺す方法などによっては全く考慮に入れなくてもよくなる。生まれつきかどうかは別にして、ひどく感受性の鈍い人間はいるものだし、時限爆弾を使って現場から離れていれば、殺されていく人間の死の叫びを聞く必要もない。また、殺される者の恐怖の叫びに興奮して、ますます残虐な行為に走る殺人者だっている。

すると、やはり最初に言った方の理由が主だろう。つまり、人間が理由もなく無闇に人間を殺さないのは、自身が人間にとっての〈本能の敵〉にならないための知恵、生き残るための知恵なのだ。


■殺人に善悪はない

ある、全く同じ状況下でキラー君は殺人を犯し、ピース君は殺さずに済ませられるのは、単に、個人の性格・資質の問題でしかない。比較的些細な理由で簡単に人を殺してしまうキラー君は、周囲の人間にとって〈本能の敵〉になる。だが、〈悪〉ではない。ここが肝心だ。

人間は長い時間をかけて〈頭の敵〉を作ってきた。つまり、正義や善や正しいものの反対側にいる存在、〈悪という敵〉だ。そうしていつの間にか、〈本能の敵〉と〈頭の敵〉の区別がつかなくなった。〈頭の敵〉は必ず〈悪〉だ。〈悪〉だからこそ〈敵〉なのだから。だが、〈本能の敵〉にはそんな区別や定義は必要ない。もっと本質的なものだからだ。だが、〈敵〉に対して抱く感情と言う点で両者の区別はない。出所は違っても、どちらも〈敵〉には違いがない。すると、大概の者は、我々が〈敵〉と認識するものは、必ず〈悪〉なのだと勘違いをすることになる。いや、そうではない。本当は〈敵〉に対して抱いている感情を、〈悪〉に対して抱く感情だと思い違いをするのだ。おそらく〈悪〉とは何なのかがきちんと理解できている者はほとんどいない。たいていは、ただ、ある対象に対して抱く確かな嫌悪感をもとにそれを〈悪〉だと判断しているだけだ。つまり、順番が逆になっているのだが、その因果関係をまたひっくり返して、我々が〈悪〉だと感じるものこそが〈敵〉だと理解する。ひどい混乱だが、実際そうなっている。〈敵〉に対する感情で〈悪〉を規定し、その規定された〈悪〉によって、あらたな〈敵〉を想定する。つまり〈本能の敵〉に対して抱く敵意を、〈悪〉に移し替え、その〈悪〉を本来は敵ではない存在に被せることで、その存在に〈本能の敵〉に対して抱くのと同じ敵意を抱かせる。

話が少し逸れたかも。

ともかく、われわれの生物としての部分が明らかに〈敵〉と認識するキラー君は、自然と〈悪〉だということになってしまう。そして、次に誰しもが思う。
どうしてキラー君のような悪い人間が存在するのだろう?
が、それこそがそもそもの間違いなのだ。キラー君は〈悪〉ではない。もちろん〈善〉でもない。我々と同じただの人間だ。そしてその同じ人間が人間を殺したのだ。キラー君のような人間は、いつでも常に生まれ、存在しうるということだ。これと言った特別な理由などなく。

我々は、同類を殺す者に対する本質的な敵意を、〈悪〉というものに移し替えてしまっている。だから、殺人が〈悪〉だという誤謬からどうしても抜け出せない。殺人とは本来、ただ、なされることだ。悪でも善でも正義でも不正義でもない。ただ、殺人なのだ。殺人と殺人者に対して抱く、我々の不快感、恐怖、敵意、憤りは、〈悪〉に対して向けられているのではない。命を奪い、脅かす〈敵〉に対して向けられているのだ。生命にとっての〈敵〉は〈悪〉よりずっと本質的なものだ。


■なぜ人を殺してはいけないと言うのか?

悪いことだからではない。そもそも悪いとはどう言うことかを考え出すと、たいていの人間は森に迷って出られなくなる。
人を殺さないというのは、本当は、良いとか悪いとは関係ない。単なる人間の知恵だ。朝、決めた時間に起きたければ、前の晩にきちんと目覚ましをセットしておく知恵が、良いとか悪いとかは関係ないのと同じだ。「悪い」と言う言葉は、「嘘をつくとえんま様に舌を抜かれるぞ」の「えんま様に舌を抜かれる」と同じものだ。だから、この戒めは「舌を抜かれる」と言う状況に恐怖を感じない者には効果がない。ということは、同様に「悪い」の意味が実感できなければ「人を殺すことは悪いことだからしてはいけません」といくら言って聞かせても、こちらの意図したことは伝わらない。そして「悪い」とはそもそも何なのかと言う問いに答えるのは誰にとっても容易ではない。「良い・悪い」はもともとあやふやな、かなり身勝手な概念だからだ。

この問いかけを、善悪の基準で考えだすと、必ず、善悪こそが、人間にとって、何か〈絶対的な根拠〉だと思うようになる。なぜ〈絶対的な根拠〉に思えるかと言えば、自分自身が、誰からも説明されなくても、実感として答えが分かってしまうからだ。大概の者は、人を殺すことや、嘘をつくことが悪いことだと、説明なしに実感できる。この感覚は当の本人をひどくを戸惑わせる。人を殺すことに関して言えば、ほぼ間違いなくしてはいけないことだと実感できるにも関わらず、ちょっと考えてみただけでは、その理由をただ「悪いことだから」としか説明できないからだ。だから、結局、その善悪を見分ける力を、まともな人間なら誰でも先天的に持っている人間の基本的な能力だと勘違いすることになる。なにしろこの自分にあるのだから、と言うわけだ。つまり人間は生まれながらに善悪の判断する能力を持っていて、人を殺すことを、その能力が〈悪〉だと言っているのだ、と。そしてそれ以外に答えはないように思う。
だが、本当は違う。少しよく考えてみれば、別に答えがあることに気付く。それは今まで書いてきた通りだ。しかし、実感として分かっていることをもう一度考え直す人間は少ない。

そして、善悪を〈正しく〉判断することのできない者に出会ったときにこう思う。「こいつは異常だ」。


■「人を殺さない」を学ぶ

上で書いたように、人が殺人に対して嫌悪を抱くことには善悪とは別の理由がある。そして、先天的に善悪を区別、判断する能力が人間に備わっているから、殺人に対して嫌悪や怒りを覚えるのでもない。善悪の判断とは関係なく、人間は、言葉と同じように、それと意識せず、殺さないことを学習するのだ。だが、いつそんなことを学んだかは誰も覚えていない。誰も母国語が喋れなかった頃の自分がどうだったのかを実感を持って思い描けないし、どうやって喋ることが出来るようになったのかさえ分からない(自分のことなのに)。それと同じように「人を殺すな」という人間の知恵は、特別に意識しなくても、ある期間人間社会の中で生きてくれば、自然と身に付く(体験することで理解する)ことだ。
また、人間は「人を殺さない」と言う態度を、言葉を覚えるように自然に身につけるが、それは、言葉を覚えることと同じで、どんな環境、状況でも必ず身に付くというものではない。例えば、ロボットの社会で育てられた人間には「人を殺さない」と言う態度は自然に身には付かないだろう。人間が「人を殺さない」と言う態度を身につけるには、どうしても、ある程度の規模の人間社会が必要だ。


■まとめ

人を殺せば、それをやった君は面倒なことになる。人を殺すと言うことは、人を敵に回すと言うことだ。敵が君に対して抱く感情は、怒り、憎しみ、恐れ。どれも平穏とは言えないものばかりだ。そして、それは、君が敵に対して抱く感情でもある。だから、君は、人が君の敵になるとき、彼がどういう感情を君に対して抱くかを、あらかじめ知るのだ。そして、うんざりし、憂鬱になる。もし、君が、君の命を奪いに来る敵に対して何の感情も抱かないとすれば、それは君に生きる力、能力がない証だ。つまり、君は敵を敵と認識できないのだ。敵は易々と君の命を奪うことができる。これは生物としては致命的だ。敵を認識できない生物は必ず滅びる。今、この地球上に、これだけの人間が存在しているということは、生物としての人間が、敵を認識できたからだ。敵を認識することが、味方の発見にも繋がる。だから無闇に敵を作らないこと。これが、生物が生き残るもっとも基本的な知恵のひとつだ。つまり「敵でないものを殺すな」と言う知恵だ。この知恵のない生物は、とっくの昔に絶滅している。というか、そもそもそんな存在は生物とは呼べない。

だから、死にたくなければ、人は殺すな。死んでもいいなら、まず自分を殺せ。そして、死ねば、君が思っているほど世界は君を必要とはしていないことを思い知るだろう。世界を滅ぼそうとする者は世界に滅ぼされるだけだ。

2001.08.30


HOME