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自分が死ぬという事態を正確に理解することは難しい。自分が死ぬとは、つまり、「絶対の不在」を意味するからだ。そこには、いかなる評価も判断も、いや、視線すらない。
我々は、自分自身の死について、実際のところまったくの無力だ。正面からそれに取り組もうとすれば、必ず、真っ黒な、壁とも空間ともつかないものが鼻先に立ち塞がる。進むことも戻ることも無意味で、いくら動き回っても結局何もしていないという情況に陥る。自分自身の死について考えを巡らすことは、徹底的に無意味だ。
だから、我々は、迂回する。
我々は「死後の世界」という「延長された生」の概念を据えることで、自分自身の死を絶対から相対へと横滑りさせる。「死」を、生きている状態と対になる「存在の一形態」だとみなすのだ。しかし、一切のロマンチシズムを退け、ただ乾いた視線で見れば、「死」とはそれ自体が絶対の終着点である。だから「死後」という捉え方は、そもそも錯誤以外のなにものでもない。「死」の当事者(死んだ当人)にとって、「死」に「後(あと)」などない。「死」に「後(あと)」があるのは、「死」の傍観者(死ななかった者)のみだ。だが、「死」を成すのは、死すべき当事者であって、傍観者ではない。つまり、「死後の世界」は、いまだ死を知らぬ生者の論理が支える、生の世界の変奏でしかない。「死後の世界」に「死」は少しも関わってない。だから、言い訳された「死後の世界」を、どれだけ深く掘り下げ、精緻に考察しても、そこから「死」が見えてくることは決してない。露わになるのは、変奏された「生」の論理と、「死」に対する生者の佇まいだけだ。
我々は、「死」に対する迂回としての「死後」という佇まいを打ち捨て、歩を進めなければならない。「死」を「延長された生」でごまかしても、本当に「死」を乗り越えることは出来ない。それは単に回答を先延ばしにしているに過ぎない。
「死」は存在のうちにあるのではなく、いわば、外側から存在そのものを規定する。すべての存在の外にあるもの、それが「死」だ。だから、「死」を乗り越えるとは、存在のうちにある我々が、その存在そのものの絶対性を無効化することで、二重の手続きの結果として、「死」をうち消すことを意味する。
我々は、肉体でも魂でも光でもない。我々は、まず第一に、「私」である「意識」が、その存在を認識している情況に於いて存在し、また、「私」以外である「意識」が、その存在を認識している状況に於いて存在するが、その存在の根拠は、あくまでも、「私」が存在していると認識している「私」と「私」以外の「意識」の他は何もない。つまり、例えば「私」にとって「私が生きている」とは、「私」自身が存在していることに「気付いている状態」のことで、それ以上の絶対的な根拠は何一つない。そこにあるのは、悲劇的な循環としての、自己言及の構造のみである。私が存在を保証する私が存在を保証する私が存在を保証する私が……。突き詰めれば、「私」が存在するのは、ただ「私」がそう思っているからに過ぎないということだ。そして、「私」は、無限の彼方から「私」自身によって、その存在(実在)を保証されているために、どうしても、それが根拠のない幻だと気付かないだけなのだ。
逆に、「私」自身が存在していることに「気付いて」いなければ、たとえ身体が「生きて」いても「私」は「存在している」ことにはならない。その時、「私」は存在せず、ただ「世界」だけが存在する。動物の「生(せい)」がまさにこれだ。彼らは、「世界」を「体験」する自分自身という存在に対して無自覚だ。それは、言ってみれば、分数の「分母1」のように、省略され、見えない。当然の大前提として、まず、自分が存在するということに、彼らは気付かない。だが、本当のことを言えば、自分が存在しなければ、そもそもどんな「世界」が存在していようと「体験」できないわけだから、自分自身の存在や不在について、改めて意識し判定する必要などまるでない。「体験」があるかぎり「世界」は存在する。動物にとって、「体験」がなくなれば、それは、「世界」が消滅したか、自分自身が消滅したかのいずれかだが、本来的にどちらであっても構わないし、どちらであるかを判定する必要もない。
人間の「私」にとっても事情は同じだ。しかし、人間はそれを「違う」ことだとみなす。「私」の消滅(死亡)と、「世界」の消滅は「客観的事実」としては確かに別物だ。だが、それはあくまでも、自分自身を一個の他者とみなしたときにのみ可能なモノの見方だ。自分が死ぬという情況で、消滅するのが「私」なのか「世界」なのかの区別は、死ぬ当人には絶対に出来ない。体験としての「死」は、身体としての自分が活動を停止することであると同時に、世界消滅の瞬間を体験することでもある。自分が死ぬとは、つまり、世界が消滅するということだ。「私」が、どんなに自分の死と世界の消滅は別物だと主張しても、当事者としての体験は、動物のそれと少しも変わらない。消滅したのは、自分なのか世界なのか、結局のところ分からないのだ。
だから、あなたが生まれ生きてきたあなたの世界は、たった一人、あなたという人間の存在だけを、その「実在」の根拠として存在していることになる。あなたが愛着を持ち、あるいは忌み嫌うその世界は、ただ、あなたの存在だけを前提にして、あなたの前に広がっている。あなたという存在は、世界という前提の後にあるのではなく、あなたという存在の後に、世界があるのだ。それが何を意味するのかが理解できれば、あなたは「死」を乗り越えられるだろう。
(2004.09.25)
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