【無差別殺人は挫折した自殺】


無差別殺人は挫折した自殺である。

人を殺すこと自体が目的である無差別殺人の殺意の正体は自殺願望である。
世界を拒絶する者が本当に拒絶しているのは常に自分自身である。

殺人そのものには何の意味もないし、価値もない。
殺人によってもたらされる"情況"が、その殺人に意味や価値を与えるのである。
邪魔者を排除し、財産を奪い、危機を排除するための手段としての殺人。
目指す結果を手に入れるための手段としての殺人である。
だが、無差別殺人は、手段としての殺人ではない。
無差別殺人はどこにも辿りつきはしない。
ただ無意味な死体が作られるだけである。
無差別殺人は、殺人そのものが目的である。

殺人そのものには、本来何の意味も価値もない。
殺人そのものに意味や価値を幻想させるのは、生への過剰な執着である。
"かけがえのない生を中断する行為としての殺人"という評価。
それが、殺人そのものを"敢えて行うべきこと"のように思わせる。

"かけがえのない生"を強く実感する場所は自分自身の生である。
他人の生から"かけがえのない生"を実感する者は少ない。
人間はまず自分自身の生の"かけがえのなさ"に気づき、それを他者に転写する。
殺人への評価は、その者の生への評価に比例する。
殺人に、より引きつけられている者は、生に、より引きつけられている者である。
"脅かされる生"を最も強く感じるのは、真剣に自殺を思うときである。
殺される他人を想像するときでも、自殺する他人を想像するときでもない。
誰かに殺されるかもしれない自分を想像するときでもない。
真剣に自殺を思うとき、死は驚くほど近くにいて、生を脅かす。
そのとき感じる、生々しい恐怖や震えるような寂寞感が、
殺人を特別なものに仕立てていく。

だが自殺とは、ひたすら無意味な茶番でしかない。
そこで、無意識の自殺志願者は、無意識に"挫折"する。
挫折した無意識の自殺志願者の内面に、自分自身への殺意だけが澱のように残る。
無差別殺人は、自分自身に殺意を抱く者が、無自覚に挫折する所から生まれる。

自殺は、殺す者と殺される者が同一である為に"コロシの遂行"への抵抗が大きい。
生き延びようとする自身の身体が、殺そうとする自身の意識に強く抵抗する。
意識の"ありかた"は、帰属する身体の影響下にある。
身体(本能)は、自身が生き延びるために、意識を無差別殺人へと誘導する。
殺意は自殺を迂回し、無差別殺人へと向かう。
自殺者志願者は知らぬ間に無差別殺人者に変貌する。

他者の身体からの抵抗は、殺そうとする者の意識に直接的な影響力を持たない。
殺される他者の身体と、殺人者の意識は"別人"なのだから当然である。
殺される他者が、無防備で、相対的に無力であるならば、
殺す者の意識は、自殺とは比べようもないほど容易に殺意を解放できる。

生物は、自分自身を生きながらえさせる能力には長けている。
だが、自分自身を殺す能力には乏しい。その点では無能とさえ言っていい。
本当に殺したいのは常に自分自身である無差別殺人者は、だから、他者を殺す。


追記。
ここでいう無差別殺人者は、"正常"な精神状態の者を想定している。
無差別殺人に行き着いてしまった"正常"な者のことである。
コンビニで買い物が出来、全裸で町中を歩き回ることはないが、
無差別に人間を殺し歩く者のことである。
薬物中毒などで脳が破壊された精神錯乱者のことではない。
また、歪んだ性衝動の重篤患者であるところの快楽殺人者のことでもない。
快楽殺人は決して無差別殺人にはならない。彼らが犠牲者を慎重に選ぶ。

(2008年6月8日日曜日)


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