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俺はあんたを殺そうとはしない、だから、あんたも俺を殺そうとはするな。
これが、人間社会の〈底〉だ。
誰かを殺そうとする(あるいは殺した)人間は、自分が殺されることも認めていると見なす。
つまり、〈殺す人間は殺される〉。この〈底〉が人間社会を支えてる。
この〈底〉が破れれば、他にどんなものをあてがっても、人間の社会は底が抜ける。
この〈アイディア〉は、法律でも作為的な倫理でもない。
高度化した「社会性動物」である人間の〈本能〉だ。
だから〈殺人〉は、超越的な視点からの善悪とは無縁だ。
そういう善悪が〈本能〉を生んだのではないからだ。
〈本能〉があとで〈限定的〉な善悪を決めただけなんだ。
群れない小魚は容易く敵に食われ、リーダーに付き従わない渡り鳥は冬を越せずに飢え死ぬ。
そして、殺す人間は、人間に殺されて死ぬ。
生物の〈本能〉は、生き残るための行為をいつでも「ヨシ」とする。
「人間は殺すのはなにかと都合が悪い」と〈本能〉が囁いてるなら、それは「悪いこと」なんだ。
人間社会の〈底〉は、ただ人間の〈本能〉だ。
今生きてる俺たちの殆どは、殺さなかったから殺されなかった人間の子孫だ。
だから、今ある人間社会は、「殺さないこと」が前提になっている。
それでも人間は誰でも、契機さえあれば、過失ではなく故意に人間を殺し、殺人者となる。
殺人者には二種類ある。生きたい殺人者と死にたい殺人者だ。
生きたい殺人者は、排除するために殺人を犯す。
死にたい殺人者は、自死の欲求を他人に被せる。
生きたい殺人者はいつも、〈殺す人間は殺される〉をどうにかする必要がある。
〈殺す人間は殺される〉が自分には適用されないようにしなければならない。
犯した殺人の正当性を主張したり、自己弁護したり、あるいは殺人そのものを隠匿したり。
でなければ、生きたい彼は、自分が殺されることを受け入れざるを得ない状況に陥る。
生きたい殺人者は、いつも、どこかで赦されることを望み、期待している。
生きたい殺人者は、そうは見えなくても、実は「殺さない社会」の存続を望んでいる。
死にたい殺人者は違う。
彼の犯す殺人は、いつも、自死の仮装だからだ。
だから〈殺す人間は殺される〉が、彼には抑止力として機能しない。
むしろ〈殺す人間は殺される〉故に、彼の自死は、殺人へと裏返る。
自死は、究極の世界否定と同義だ。
つまり死にたい殺人者は、「殺さない社会」も「殺す社会」も拒否する。
彼は、社会(世界でもいいが)そのものを拒否しているのだ。
意識(心)が先鋭化し過ぎて、〈本能〉が機能不全を起こしている状態だ。
それぞれの人間は、それぞれの人間の〈社会体験〉の中で生きている。
それぞれの人間にとって、客観的な社会なんてものはどこにもない。
あるのは、彼の体験する個的な〈社会〉だけだ。
だから、彼の拒否している〈社会〉は、実は俺の〈社会〉でも、あんたの〈社会〉でもない。
実は個的な(限定的な)〈社会〉を拒否しているだけの人間が、殺人者になる理由は簡単だ。
彼の個的な〈社会〉の中に登場する他者を、物理的に実在している他者と同格とするからだ。
だが、彼の個的な〈社会〉の中の他者は、実在の他者の〈翻訳物〉でしかない。
翻訳するのは、もちろん、その〈社会〉を体験している彼自身だ。
自死を望む彼の〈社会〉に登場する他者は、誰も彼もある偏り方で〈誤訳〉される。
つまり「死んだ方が本当は幸せだ」と。
「死んだ方が本当は幸せだ」と感じているのは、実は彼であって、他者ではない。
が、彼の〈社会〉に登場する他者は、彼には「死んだ方が本当は幸せ」な存在にしか見えない。
だから、彼は、ついには殺人者となって、自分の代わりに他者を殺してしまう。
自分が死ぬ前に、〈いいこと〉をしておきたいと願うからだ。
だが、何度も言うが、その〈社会〉は、彼だけの〈社会〉だ。
物理的な生き物としての人間が実在しているある時空領域としての〈社会〉ではない。
死にたい殺人者の殺人は、人間の「自分は本物の社会体験の中に居る」と言う錯誤の産物だ。
それは、妻に殺してくれと哀願された夢から覚めて、横に寝ていた妻を殺すようなものだ。
俺たちが共通の社会体験のなかにいるように感じるのは、〈似た夢〉をよくみるからに過ぎない。
〈似た夢〉をよくみるのは、ただ俺たちが全員同時代に生きている人間だからだ。
だが、あくまでもそれは〈似た夢〉であって〈同じ夢〉ではない。
俺たちは、映画館に集まって一本の同じ映画をみているわけではない。
社会体験に於いて、全員が見ることの出来る〈一本の同じ映画〉など存在しない。
一つの社会体験を全員で体験するのではなく、複数の社会体験を複数がそれぞれに体験する。
それぞれの社会体験に登場する他者たちは、ただその社会体験の中でのみ〈現実〉だ。
この射程の短い〈現実〉が、ある個人から発せられて、社会を覆い尽くすことは決してない。
各々の個人から発せられた短い射程の〈現実〉が、お互いに重なりあうことで社会を覆うのだ。
そして、重なり合ってはいても、それぞれはやはり〈別もの〉のままだ。
そのことを忘れてはいけない。
自分の〈社会体験〉の〈現実〉の射程に対する過大評価が問題だ。
人間の引き起こす(した)災厄は、すべて、この〈過大評価〉故だ。
無理心中、オウム、第三帝国、テロリズム、独裁貧困国家、世界の警察気取り……。
更に言えば、だから、「私が生き続けたいように、彼もまた生き続けたいだろう」もダメだ。
その考えた方はいつでも〈裏返る〉ことが出来るからだ。
「私が絶望しているように、彼もまた絶望しているだろう」
「私が死を望むように、彼もまた死を望むだろう」
肝心なのは、自分の〈現実〉の射程の短さを自覚することだ。
他者は、あんたの〈現実〉を生きているわけではないことを、忘れないことだ。
(アナトー)2005.07.10
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