国家について
人類の歴史上、今あるような形態・意味づけの「国家」という括りが、暫定的、過渡的なものでしかないことを理解するのは、大多数の人々にはまだ難しい。国家は社会のような「自然物」とは違う。社会にはこれと指せる実体があり、例えば、人が敢えて名付けることをしなくても独立して存在するものだ。大地や海が、人が名付けなくても存在するように、人が生活する限り社会は存在する。

だが国家は違う。国家は、本当のことを言えば、そこに住む人々が、主に地理的制約と言語的制約から、取り敢えず合意している、完全に恣意的な取り決めでしかない。サルのなわばり争いの延長で侵略したりされたりしてきた人類の、サルなりの知恵が国家と言う形態・括りなのだ。その意味で国家と言う括りがもっとも機能する場面は戦争だ。そう、ぶっちゃけた話、国家はサルが生み出した戦争をするためのシステムだ。じっくり見渡してみればいい。国家は戦争をするため、戦争に備えるために生まれた、という言葉に当てはまらない国は、世界中のどこにもない。

国家が戦争以外でも有効に機能しているのは、戦車でもドライブが出来るのと同じことだ。国家という括りが人間社会の主要な括りとして存在している限り、人間の社会は常に、戦争か、戦争の間の準備期間かのどちらかにしかならない。この準備期間を「平和」と呼んで喜んでいる。国家と言うシステムは、必ず戦争を望み、生み出す。なぜなら戦争こそが、国家の生みの親だからだ。
戦争するつもりがないのなら戦車はいらない。ドライブには乗用車を使うべきだ。

国家の機能はどれもこれも最終的には、防衛も含め戦争に勝つためのものだが、一番重要な機能は、そこに暮らす人間達に「国民」と言う役柄を与えることだ。国家は、煮詰めて煮詰めて濃厚なスープを作るように、国家内部の人間、文化、言語、歴史、伝統などの密度・純度を高め、そこに住む人々に「国民としての意識」を植え付ける。愛国心まで行かなくていい。確かに自分はこの国に所属する人間なのだ。そう思わせるだけで十分。かつて人類は血のつながりを理由に手を組んで「敵」と戦った。国家は「血のつながり」の代わりに文化や伝統や歴史、あるいは暮らしている土地そのものを持ち出してくる。そういうものをひっくるめて「国」と呼び、そして、こう叫ぶのだ。
「我々の国を守れ!」

今、この地球上に生きている人間の殆ど全ては、生まれたときには既にどこかの国家に所属してしまっている。国家はあるのが当たり前になっている。だから、この国家というものが、本来は戦争を目的としており、もともと恒久平和の実現には向かないシステムだと言うことに気付かない。更に、国家と言う戦争用システムが、そこに暮らす人間の、文化・言語・歴史の独自性を強化する機能を持っていたがために、住人達の間で、国家がすなわちその場所の文化そのものであるかのような混同が起きてしまっている。

どうもうまく言えない。

ある地域の文化(言語、歴史、伝統、宗教など)や社会の独自性、自立性を守ることと、そこにある国家という戦争用システムを守ろうとすることは別だということだ。

だから、世界の恒久平和を口にする者は誰であれ、今あるような戦争用システムとしての国家を解体するだけの視野を持たなければ嘘になる。逆に言えば、まともな人間なら誰でも世界の恒久平和は当然望むことなのだから、人類の歴史がこのままよい方向に進むとすれば、今あるような国家は必ず解体されることになる。

国家の上に、それらをとりまとめるシステムが構築できれば、相対的に国家の括りは弱まる。ちょうど、今、日本人なら日本中どこへでも好きに出掛けられるように、将来は地球政府に税金を納める地球人なら、地球のどこの国へでも自由に(ビザなしで)出入りが出来るようになる。国家の括りがゆるくなるとはそういうことだ。国家という括りが一段下がると言った方がいいのか?

長野県民と愛知県民が県をあげて殺し合うことは今は有り得ない。が、ほんの何百年か前の戦国時代には当然のように殺し合っていた。

この問題についてはもう少し考えよう。

2001.08.18


HOME