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人間の意識が発達すると、どうしても〈神〉という概念が現れざるをえない。それは一種のプログラムミス。いや、ミスというよりも、必然的に生じる回避不能のバグか?どこにもミスはないが、プログラムの性質上どうしても現れる、好ましからざる現象と言い換えることができる。なぜ〈好ましからざる〉かは後に述べる。
人間の意識が自分と他者と言うものを認識し、考えを深めていくと、どうしても、割り切れない思考対象にぶつかる。私というものがあり、あなたというものがあり、私でもあなたでもない第三者があり、そして、そのどれにも属さない何かがある。人間の意識が世界の現象を見るとき、もし、その全てに〈それをなすべき者〉を設定しようとするなら、必ず〈神〉あるいは〈超越的な何者か〉を想起することになる。「私がしたこと」「あなたがしたこと」「彼がしたこと」そのどれにも属さない〈現象〉が世界には溢れている。そのどれにも属さない〈現象〉はすべて〈神〉の机の上に置かれる。
人間の意識が〈原因〉つまり〈意味〉を求める以上、〈神〉の概念の出現は必然だ。人間の意識があらゆる現象に〈意味〉を求めようとするのは、生き延びるための本能だ。〈なぜそれは起こるのか?〉が正確に理解できれば、その現象が起こる前から、確実に予測することが出来る。〈事前に知っていること〉はどんな生命にとっても生き残る上で有利になる。だから、人間の意識は遠い昔から〈神の意図〉を理解しようともがき苦しんできた。〈神の意図〉とはつまり、この世界のほとんどありとあらゆる事に関わりがあったからだ。〈私〉も〈あなた〉も〈彼〉も意図していないのに引き起こされる現象の全てが〈神の意図〉なのだ。〈神の意図〉を理解できれば世界は理解できる。そう言う論法だ。ここでは〈神とはすなわち自然〉がほぼ成り立つ。
いわゆる〈サタンの教え〉である科学は、〈神の意図〉を推し量ることなく世界を理解しようとする方法だ。〈サタンの教え〉つまり科学によって世界を見ていくと、なるほど、そこに〈神の意図〉など見当たらないことに人間の意識は気付く。古代の人間の意識が〈神の意図〉として恐れ敬った〈自然現象〉は実は、単にただそうなるだけのものだった。そこに〈神の意図〉などなかったことに人間の意識は気付いた。科学によって、人間の意識は〈神とはすなわち自然〉という段階を乗り越えた。
ヨブ記にあるように、それまでの〈神〉は考えの足りない、行き当たりばったりの最高権力者でしかなかった。絶対の権力と力は持っているが、そこには崇高な志も公平な態度も見られない。あるのは子供じみた支配欲と思い上がりだけだ。つまり〈自然〉そのものだった。人間は自然の一部である以上、絶対に自然つまり神には勝てない。いや、そもそも自然から自立して、対峙することなど不可能な存在だ。ただしその〈自然〉を〈神〉とすることに、人間の意識が〈無理〉を感じ始めた。「どう考えても、これはおかしいぞ」ということになってきた。なぜかと言えば、人間の意識がより発達したからだ。更に高みのぼった人間の意識がそれまでの〈神〉の浅はかさ、愚劣さに気付いたのだ。高度になった人間の意識が、より大人の〈神〉を求めるようになったといってもいい。
そこで登場するのがイエスだ。彼の宗教改革はつまり〈神〉を〈自然現象の説明者〉から〈道徳の具現者〉に変えることだった。神の行動に対して神自身が責任を果たすことを要求したのだ。神がそれまでの無思慮で馬鹿げたことばかり繰り返す神から、慈愛に満ち、思慮に富み、公平を重んじ、約束を守る〈善〉としての神に生まれ変わることを宣言したのだ。
なぜイエスは現れたのか?端的に言えば、人間の意識がそこまで行ったと言うことだ。人間の意識が〈善なるもの〉を明確に意識し、理解し始めたということだ。何も考えてないそれまでの神をただ強大な力を持っているからと言う理由だけで、恐れ敬うだけではだめなんだと気付いたと言うことだ。ただ、ここが微妙なところだが、その当時の人々が神を否定したというのではない。逆だ。人間の方が神に対する認識を新たにしたと捉えた方が現実に近いだろう。神はずっと間違ってはいなかった。人間が神というものを勘違いしていたという理屈だ。ユダヤーキリスト教のような一神教を信仰し続けるにはそれしか隘路はない。だが、本当は、ただ、人間の意識がより高度になっただけのこと。
人間の意識が高度になるほど、神も高度になる。
先にも言ったように、神と言う概念は人間の意識というプログラムから不可避的に発生するバグでしかないからだ。
人間の意識にとって神の存在を肯定するのも否定するのも、同じように誤りだ。神というものはどうしても人間の意識の中に生まれる概念だからだ。神という概念は、自己と言う概念とセットになっている。自己が存在すると感じることと、神が存在すると感じることの根は同じだ。「いやそうじゃない。神は物理的に存在していないが(少なくとも今まで確認されてはいないが)、自分というものは確かに血肉のある生き物としてここにある」というかもしれない。だが、それはただの思い込みだ。たとえば、このままのペースで医療技術が進歩し、脳味噌だけでも生きていける事になったらどうだろう?あなたは、その脳が自己のよりどころだというだろう。では体から脳を取りだし、装置に入れ、脳を抜き取った自分自身の体と対面したらどうか?あなたはどっちだ?
やはり意識をもった脳の方があなただと言うだろう。では、さらに時代を進み、意識を保存するのに、脳さえ必要なくなれば?
意識を機械に移し替えたあなたは、なんの欠損もないあなた自身の肉体と出会う。あなたはどっち?意識を移し替えた機械の方?
でもそれはあなたがそう感じているだけだ。物理的なあなたは間違いなく、意識を抜き取られた肉体の方であって、機械に宿るあなたの意識ではない。あなたという意識は、あなた以外には確かめようがない。いくら機械の中からあなたが叫ぼうが、それはただ、あなたがそう言っているだけなのだ。客観的な証拠はどこにもない。でもたしかにあなたにとって、あなたというものは存在している。
そして神についても?
同じだ。神は人の意識が生み出すものだからだ。
意識を機械に移し替えたあなたは、すでに、その存在基盤は神と同程度に危うい。逆に言えば、神と同程度に確からしい。
神という私。
神という概念の短所を最後に。
神は大勢の人間の意識の無意識の産物だが、それを擬人化することで、それ自体が勝手な意志を持ってしまうことがある。神が擬人化されることで、ある特定の人間によって逆にコントロールされやすくなるのだ。「神はそのことを望まれていない」「神はお許しにならない」「神の言うとおりになさい」いくらでもある。
そのどれも、神ではなく神官(牧師)の、あるいは特定の宗教団体の意識の現れを都合良く神に当てはめているだけなのだ。どんな職業でも、特化するといわゆる一般社会の意識との間に溝が生まれる。齟齬といってもいい。神は共同幻想であるべきなのに、浮世離れした神官が神を囲い込むことで、神が非常に特殊な自己幻想、あるいはひどく狭い範囲での共同幻想に変化していく。すると、どうしても世界との不協和を生むことになる。ようするに内輪ネタだけで盛り上がる芸能人のようになるわけだ。
神という概念は本質的に、反省や訂正や自己批判を受け入れない。神を閉じこめると神は世界を忘れる。
2001.07.17
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