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『強い書き手、弱い書き手』を読んでくれた人の意見とかを聴いてて、こりゃ、ちょっと補足しないといけないなあと思ったことがある。なんだか、あれを読んで、「強い書き手=他人の評価が気になる人」「弱い書き手=他人の評価なんか関係ない人」って受け取ってる人が多い気がしたからだ。うまく書けない俺のせいなんだけど、そんな分かりやすいもんじゃないんだよな。だったら、「強い書き手」とか「弱い書き手」とか言わないで、評価が気になる人と気にならない人でいいじゃないか。そうじゃないんだ。
「強い書き手」と「弱い書き手」の違いの本質は、他人の評価に対する態度じゃなくて、あくまでも、作品(自作)と作者(書き手)との距離だ。「強い書き手」も「弱い書き手」も、他人の評価(リアクション)を期待するからこそ、作品を公開するわけで、その意味ではどちらの「書き手」にとっても他人の評価には「価値」はあるんだ。ただ、その「意味」が「強い書き手」と「弱い書き手」では違う。「意味」が違うから当然、他人の評価に対する態度も変わる。けど、それは表層的なもので、どちらの「書き手」も、他人の評価に「価値」を見いだしてる。
もっと突っ込んで言えば、それは、「そもそも表現とは何か?」っていう話になる。ついでだから言ってみると、「表現」はどんなに内発的に思えても、現実は「世界からの吸い出し」に他ならない。つまり、「表現」が内側から「自然に吹き出す」のは、「世界」がそれを「吸引」しているからだ。なんだかオカルトめいてきたけど、そんな話じゃない。「表現」は必ず「世界」の存在を前提にしているってことだ。「表現」は、どんなものであれ(カエルのケロケロから、ベートーベンのジャジャジャジャーンまで)、「世界」の「評価」を当て込んでなされる。「世界」があるからこそ、「表現」は俺たちの内面から「世界」に向かって「吸い出される」んだ。今はそうは見えないことが多いだけで、もともとはそういうもんなんだ。
ともかく、「強い書き手」だろうと「弱い書き手」だろうと、それが「表現」である限り、自分以外の何者かの「評価」に対する期待が「本能」としてそこにはある。だから、「強い書き手=評価が気になる人」「弱い書き手=評価が気にならない人」と単純には言えない。
じゃあ、両者の、評価に対する「意味」の違いはなんなのか?
「強い書き手」は、自分自身を作品から遠ざけることで、そこに価値を生もうとする。作品から自分自身を遠ざけ、究極的には無限を見通す神の視線で作品世界を構築することを目指している。だから、そこ(作品世界)で起きる全てについて、主題を知り、意味を知り、理由を知り、隠された主張や思想を知っていて、問われれば、それに答える用意ができているのが究極の「強い書き手」だ。つまり、「強い書き手」には、書かれつつある自作品の、自分以外にとっての「価値」(その作品が書かれなければならない根拠)について、初めから、ある目算があり、作品は、その目算した「価値」を実現するために、完成へと運ばれる。
だから、こうも言える。「強い書き手」は、少なくとも「この作品には、ある普遍的な価値が含まれるはずだ」と思えなければ、そもそも書けないし、仮に書いたとしても発表を控えてお蔵入りにしてしまうだろう。
「強い書き手」にとって、他者の評価は、作品の「価値」に対する評価であり、それはその「価値」を生み出した「強い書き手」自身に対する評価となる。つまり、俺たちが、ある作品なり作家なりに与えられる評価というときの、一般的な意味においての評価だ。
一方、「弱い書き手」の作品は、「強い書き手」のそれと比べて射程が短い。だから、大抵の場合、資質的に近い場所にいる者たちにしか、「弱い書き手」の作品は届かないことに、「弱い書き手」自身なんとなく自覚がある。作品世界の視線は、無限を見通す神の視線にはなりえず、どんなときも「弱い書き手」自身の「制限」された視線になるしかない。だから、「弱い書き手」は、無限を見通す神の視線ではなく、自分自身の「脆弱な目」で「見える」範囲の「世界」を、出来る限り「忠実」に再構築するしかない。そして同じ「世界」を「見て」いる他の誰かが声を上げるのを待つんだ。
だから、「弱い書き手」にとって、他者の評価が意味するところは、「見て」いる「世界」が「同類」にうまく伝わったという、ただそれだけだ。(たぶんそれがうれしいんだけどね)。そして、ここが肝心なところだけど、このうまく伝わった「世界」に、はたしてどれほどの「価値」があるのか、「弱い書き手」は殆どなにも言えない。伝えようとした「世界」が全くの無駄話なのか、究極の真理を含んでいるのか、そんなことは分からないし、説明も出来ない(説明できるならフィクションなんか書かずに、直に伝えればいいじゃないか)。ただ、その作品を読んだ時に、心だか脳だかハートだかに、感動なり動揺なり戦慄なりおかしみなりがサッと走り抜けた、そのことが重要なんだ、と、そう言ってしまえるのが、究極の「弱い書き手」だ。
もうひとつ。
「強い書き手」「弱い書き手」といっても、真ん中で線引いて、こっちとそっちでまっぷたつって事じゃない。phセンサーの酸性、中性、アルカリ性みたいな、なだらかな変化だ。
今思い出せるQBOOKSの名前を、この「phセンサー」的に並べてみると、
(敬称略)
【強】のぼりん/MAO/ごんぱち/蛮人S/太郎丸/越冬こあら【中性】カピバラ/空人/どっぐちゃん【弱】
こんな感じ。絶対的な根拠はないよ。今はそういう風に感じるんだ。
で、主宰、あんたは「強い書き手」だ。上の「phセンサー」で言うと、越冬こあらの右隣くらい。限りなく「弱い書き手」に近いけど、やっぱり「強い書き手」の方。
そう思う理由はこんな感じ。
作品を読んでいると、どっかで、自分を殺して書いてる感じがスゴクする。あと、「プロ志向が強い」感が、すごくある(作品がプロ並みって意味じゃないよ)。「文学とは、かくあるべし」みたいなのが、心のどこかにあって、自由に書くことを勝手に自分で制限してる。文学好きは、どうしても文学のために文学を書いちゃうんだよなあって感じ。なんていうのかなあ、「ヒトに見せても恥ずかしくないモノを書こう(書けるように努力しよう)」ってのが、先にあるでしょ? ヒトから「ああ、ちゃんと小説になってるよ」って認めてもらえる作品を目指してるでしょ? 読んでると、すごくそう感じる。(そんなものはどうだっていいのにな、と俺は思う。)
つまり、その作品が自分以外にも「価値」があるかどうかを意識して書いてる感じがスゴクするから、Qさんは「強い書き手」。
自分が心酔したり影響を受けた作品とかがあったりすると、それが目指すべき文学になっちゃったりする。でも、それはその作家の文学であって、たとえば、「俺」の文学じゃない。Qさんの作品は、まだどっかに、「俺」の文学じゃないものを追っかけてるところがあって、それが作品を読んだ時の、ギコチナサっていうか、「ああ、まだこのひとどっかで取り繕ってるな」って感じになってる。俺は、真似をするってのは、全然、いいことだと思う。手本にするっていうか。けど、それは、「書く」ことの「本当」じゃない。それは、パソコンソフトのチュートリアルをやってるみたいなもんだからだ。チュートリアルの手順に従ってマウスをカチカチやってたら、ほら、お手本みたいな絵が描けた、ホームページが作れた、ってそんなもんだ。本人的には、まるでつまらない。そりゃ、つまらないさ。なぜって、それは「表現」じゃないから。で、そのうち書くのが億劫になる。書く必要がなくなるんじゃなくて、億劫になる。書きたいのに書けない、みたいな感じになる。だからイヤんなる。書くことによって満たされてないからだ。だったら、もっと好きに、自由書けばいい。けど、この「好きに」「自由に」が一番、難しいんだよ。ははは!
とか、書いてみたけど、俺、あんまり主宰の作品は読んでないぜ。毎月の1000字以外殆ど読まないから。(10年くらい前に、「小説はもういいや」って思って、それ以来、小説は殆ど読まない。)むかーしの1000字のマリモのヤツと、最近のポントルモのプシケのヤツを読んでるくらいだ。だから、まあ、「こいつ何言ってんだ?」って思っても、俺は知らん。
(アナトー/2005.05.22)
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