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さて、ある文体を解析し、その構成要素や力学を抽出することはたぶん可能で、本気で取り組みさえすれば意外に簡単かもしれない。また、そうやって手に入れた「関数」によって、オリジナルにそっくりな文体を再構成することもきっと出来るはずだ。そしてたぶん、そうやって「関数」から作られた「クローン」は限りなく「オリジナルそのもの」だろう。
では、なぜヒトはそれをやらないのか?
ヒトが何かを書こうとする時、たとえば、漱石や鴎外や、自分がお気に入りの作家達の文体を「関数」を使って「クローニング」し、自作を仕上げられれば、さぞや満足だろうと言えそうだが、実際はまるで違う。「クローン」を作り上げて悦に入られるのは、学者と書かないヒトと食い詰めた職業作家だけだ。
ヒトが何かを書く(表現として書く)ということは、本質的に「呪い」からの一時的な解放だ。ヒトが何かを書く(表現として書く)のは、呪われた自分自身を呪い返す(逆向きに呪いを解く)ためだ。それによって一時的に自分自身が救われる、その束の間の真空体験のためにだけヒトは書く。もう、誰がなんと言っても、これだけは間違いがない。それに続く、書くことの職業化や、富や名声や、非難や貶めは単なる付属物で、ヒトが書くこと(書かないこと)にとっては、二義的な意味しか持ち得ない。平たく言えば、ヒトはまわりがどうだろうと「書く」ときはただ自分のために「書く」ということだ。例外はない。だから、「呪い返す」力を持たない「クローン」制作は、「呪い」からの解放を求めて「書く」ヒトにとって、意味も価値もない。それは、カラオケ「を」歌うことが、本当に「歌うこと」とは本質的には全く違うのに似ている。
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「強い書き手」と「弱い書き手」の違いは、本来自分のためでしかない「書く」という行為を、どれだけ自分自身から遠ざけられるかの違いだ。「強い書き手」は自分自身から遠くまで出向いてそこで「書く」。「弱い書き手」は自分自身からあまり離れず(離れられず)に「書く」。とりあげるモチーフの違いを言ってるわけではない。「大衆小説」と「私小説」という色分けとも違う。「強い書き手」の書く「大衆小説」や「私小説」があり、同じように「弱い書き手」の書く「大衆小説」や「私小説」がある。違いは、作品世界と作者との心理的な距離にある。
書かれたモノが、不特定多数によって受け入れられるとき、その作品には必ずある普遍性が含まれているはずだ。「強い書き手」はその普遍性を自分自身からできるだけ遠ざかることによって捕まえよう(作品の中に再現しよう)とする。先にも書いたように、ヒトの「書く」という行為は、呪われた自分自身を呪い返す行為(呪いを呪い返すことで、呪いは一時的にせよ振り払われ、ヒトは救われる)に他ならない。だから、作品世界が自分自身から遠ざかれば遠ざかるほど、書き手(作者)は「書く」ことによって得られたはずのモノを失う。名声とか富ではない、「書く」という行為そのものが与えてくれる「呪いからの一時的な解放」をだ。その「見返りの少なさ」や「しんどさ」に耐えながら書き続ける「強さ」、それが「強い書き手」の「強い」という意味だ。だから「強い書き手」には、「書く」ことによって得られる「見返り」の目減りした分に代わる別のナニカが必要なる。それが、すなわち読者の存在と評価だ。だから、「強い書き手」は、自分ではない別の誰か、つまり読者の評価なしには書き続けることが難しい。にも関わらず、書き続けるを止めない「強い書き手」がいれば、彼(彼女)はまぎれもなく、生まれながらの「書き手」だ。それは持って生まれた才能、つまり、天才だ。
評価と言っても別に大先生の絶賛なんか必要ない。奥さんの「いいわね」でも、弟の「面白いよ」でもなんでもいい。「強い書き手」にとって、読者の共感が得られなければそれは失敗ということになる。ここが「強い書き手」の「弱さ」だ。評価を得るために書いたモノが評価を得られない。しかも自分ではうまく行ったと手応えを感じているのに、それに見合うだけの評価が得られないとき、「強い書き手」は戸惑い、怒りを覚え、あるいは自信を失う。もっと行けば、書くことをやめてしまう。だが「書くこと」を知ってしまった者が、「書くこと」を諦めたときの欠落感は、最愛の者を失ったときのそれに等しいはずだ。この危機を未然に回避する方法は簡単で、「弱い書き手」になってしまうことだ。(あとで書くが「弱い書き手」には「強い書き手」を襲うような危機は訪れないからだ。) だが、資質なのか、信念なのか、「強い書き手」は「弱い書き手」になることをヨシとしないことが多い。「強い書き手」にとって、「弱い書き手」の書くモノは、敢えて書くに値しないモノ(たとえ書いたとしても公表に値しないモノ)であり、気楽なひとりよがりであり、そして何より、その気になればいつでも書けるシロモノだからだ。自覚があるかどうかは別にして、「強い書き手」にとって「弱い書き手」になることは「一歩後退」を意味している。作品世界と自分自身を遠ざけることで作品世界に普遍性を生み出そうとする「強い書き手」にとってそれは当然のことだ。「なによりもまず自分自身のために」という「書くこと」の本質を抱え込んだまま、その本質を遠ざけるようにして歩いてきた「強い書き手」にとって、「書くこと」の本質により近い場所に戻ることは、まさに「後退」以外のなにものでもない。
逆に作品世界を自分周辺から遠ざけることが出来ない「弱い書き手」は、作品世界に普遍性を再現することが難しい。場合によったら、普遍性なんてなくてもいいと考えてるのが「弱い書き手」だ。だから「弱い書き手」が作品世界に普遍性を獲得する方法は「強い書き手」のそれとは全く違う。自分自身と作品世界の距離が極端に近い「弱い書き手」は、他人には理解不能(無意味)な作品世界を構築しがちだ。狭い自分の部屋の中をいつまでも行ったり来たりするだけで、外の世界に出ていかないのが「弱い書き手」なのだから、その作品世界が他人には理解不能なのは当然と言えば当然なのだが、「弱い書き手」が、あまりに自分の部屋の中ばかり歩きまわるせいで、ある瞬間に彼(彼女)の「部屋」の「床」が抜けてしまうがある。作品世界が「書き手個人」の床板を踏み破って、「普遍」の場所に出てしまうわけだ。この時、「弱い書き手」の作品は、普遍性を獲得する。つまり、遠出の出来ない「弱い書き手」は、自分自身という「個人」の「床板」をしつこいくらい歩き続け、遂に踏み破ることで「普遍性」を獲得するわけだ。
「弱い書き手」には、自作が評価を得られなかった場合に「強い書き手」を襲うような危機は訪れない。それは、「弱い書き手」が「書くこと」の本質(「書く」ことは他の誰でもない自分自身を救うためだということ)に、より忠実だからだ。もっと言えば、「書くこと」そのものに意味があると信じて(感じて)いるからだ。「弱い書き手」にとって、自作の読者は自分一人で充分で、それ以上は、ありがたいボーナスのようなものだ。だから、誰一人彼(彼女)の作品を評価しなくても、自分で「そうこれなんだ!」と納得できれば、惑うことなく、あるいは迷うことなく、書き続けることができる。
もちろん「弱い書き手」にとっても、読者の評価は有り難いし、嬉しいものだが、その有り難さ、うれしさは、「作品を認められたから」というよりは、「自分と同じように感じる者が自分以外にもいた」ことに対する、有り難さであり、うれしさだ。つまり、同類を見つけた喜びだ。「弱い書き手」にとって、自分の作品は、今回はたまたま自分が書いただけで、自分と同じように感じる者なら誰でも書きえたありふれたものだ。「昨日、君が書かなかったものを、今日、僕が書いてみたよ」 それが、「弱い書き手」の自作に対するスタンスだ。だから、自作が一切顧みられることがなくても、それはある意味当たり前なんだ、と言ってしまえる「強さ」を最初から持っている。なにしろ、「あなたがたまたま書かなかったモノを、僕がたまたま書いただけ」なのだから。
以上の内容は、「日本語が書ける力」のあるなしとは全く関係がないのは言うまでもない。それはまた別の文学的センスであり、才能であり、技量だ。「強い書き手」であろうと「弱い書き手」であろうと、「日本語が書ける力」がなければどうしようもない。だが、これについてはまた、いずれ。
(アナトー/2005.05.12)
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