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殺人罪の時効を廃止しろとか、いや残せとか、そういう議論がこの国のそこらへんの人たちの間で起きているらしい。時効を廃止しろ派の人たちは、時効成立後に犯人が見つかったときに、何のペナルティも科されないってのはオカシイじゃないかってのが、一番の主張理由。時効を残せ派の人たちは、何十年も前の殺人事件の容疑者として起訴された場合、当事者の記憶が曖昧になったり、被告のアリバイを証言できる人が死んでいたりして弁護が難しくなるから、えん罪が増える危険がある、というのが一番の主張理由*。要するに時効廃止派は何十年後かに起訴された被告が真犯人であることを前提に話をしているのに対し、時効維持派は何十年後かに起訴された被告が真犯人ではなかったことを前提に話をしているわけだ。これでは議論はどこまで行っても平行線。バカバカしい。
殺人に関して言えば時効なんて廃止すればいい。けどそれは殺人者の逃げ得(罰を逃れること)が許せないからではない。また、真犯人を〈暴き出すための〉手段を永久に保持するためでもない(殺人を犯してないと主張する人間を、特定の第三者(裁判官など)が殺人者だと断定するのは、未開で野蛮な行為にしか思えない)。裁判以前に真犯人であることが自明である殺人者に、後で説明する〈人間の本質的な責任・義務〉を果たさせるための強制力を保持し続けるために、殺人の時効は廃止されるべきなのだ。
さて、知っての通り人間はすべて無自覚の〈生命教〉信者だ。だから、〈理由〉もなく生命を奪ったり否定する者を基本的に〈認めない〉し〈許容しない〉。殺人の時効は、その、認めないし許容もしたくない殺人者を「一定期間が経過したから」というだけの理由で認め許容することを強いる。法律と裁判という狭く閉じられた世界に長年居続けたせいですっかり生身の人間の感覚が麻痺して、人間は法律と裁判によって生かされていると思っている弁護士連中にはそれでもいいだろうが、〈生命教〉信者である生身の人間には、そんなことは我慢がならない。
〈生命教〉信者である生身の人間にとって、殺人者は〈我々〉ではなく〈彼ら〉だ。殺人の〈理由〉が明らかになり、殺人者による殺人の〈説明〉がなされて初めて、人間は殺人者を〈彼ら〉ではなく〈我々〉だと認めることができる。逆に言えば、殺人者は自ら犯した殺人の〈理由〉を明らかにし、〈説明〉することでのみ、〈人間の側〉に復帰することが可能になる(改めて言うことでもないが、殺人の〈理由〉と〈説明〉が充分に受け入れられるものなら、殺人者は特に罰を受けることもなく、人間として人間社会に受け入れられる。すなわち「戦争」「正当防衛」「ある種の堕胎」「脳死患者からの臓器摘出」など)。人間は殺人に〈理由〉を求め、殺人者に〈説明〉を求める。「殺人者は、その殺人に対して説明責任がある」というのが〈生命教〉信者である人間の社会の於ける〈掟〉だ。そして、法律がどうであろうと、殺人者の説明責任は、殺人者が生きているかぎり続く。殺人者を死刑にするとか無罪にするとかいうことよりも、殺人者に殺人の〈理由〉や〈説明〉を求めることのほうが、〈生命教〉信者たる人間にとっては重要なのだ。殺人者に対する罰の軽重は、その時々の当事者たちの性向や、とりまく社会環境や時代背景や民度やなんやかやで、どうにでも変わるし、そのどれが正解でどれが間違いだとも言えない。裁判の判決に絶対の正解はないし、それはいつまでたっても変わらない現実だが、「殺人者は自ら犯した殺人に対して説明責任を持つ」という〈掟〉の強制力は、そんな裁判の不確かさには左右されない。殺人の裁判で、本当に重要なのは、結局はその場しのぎでしかない判決結果ではなく、裁判の過程で殺人という人間最大のタブーを〈解体〉し、その負の力を無力化することにある。だから、たとえ何十年後であろうと殺人者は釈明(裁判)の場に立ち、自ら犯した殺人について〈説明〉し、〈理由〉を明らかにしなければならない。これは、法律ではなく、人間の本質に属する問題なのだ。
殺人者に罰を与える為にではなく、殺人者に自ら犯した殺人の〈理由〉を明らかにさせ、〈説明〉をさせる強制力を社会が保持し続けるために、殺人の時効は廃止にすべきだ。
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*時効維持派の言い分はそれ以外にもあって、曰く、時効がなくなれば捜査陣のモチベーションが下がるとか、遺族や世論の殺人者に対する感情は長い年月が経てば変わる(罰せよという意識が弱まる)とか、殺人者が逃亡中に受ける精神的なプレッシャーが既に罰になっているとか、いろいろだ。だが、こんなものはどれも事件当時者たちの心の内面についての憶測でしかなく、それぞれの場合でどうとでも変化することばかりで、本当はどうなのかも、結局、外からは分かりはしない。少しも何かを主張するときの根拠になりやしない。
(「ゲルドルバ18」より)
2008年8月13日水曜日
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