【〈時間〉を巡るナンヤカンヤ】


さっき日本テレビかどっかで、人類滅亡の予言をモチーフにした番組をやっていたのをちらっと見た(2008.09.18)。予言……。予言の蒙昧は、時間が、たとえば、過去から未来に伸びた帯のように「すべての時間の経過過程が〈いつでも〉そこにある」と考えるところから来る。この考えの最大の欠陥は、時間の外に別の時間を想定してしまっている点にあるが、まあ、それは今はいいや。人間の認識力は脆弱だから、時間のような観念を、そのものとしては巧く理解出来ない。だから、それをもっと理解しやすい空間に置き換えてしまう。〈空間の移動〉には必ず〈時間の経過〉がついてまわるから、つい、扱いを同じにしてしまうんだ。というか、そもそも時間の観念は、空間認識の応用から生まれた可能性が高い。で、現在という〈場所〉から、未来と言う〈場所〉を見たり聴いたり、そこからのメッセージを受け取ったりできるなじゃないか、みたいなことを妄想する。けど、時間は空間じゃないからそんなことはできない。だから、予言はすべて、人間の妄想だと考えて問題ない。当たるとか当たらないとか、そう言う次元の話じゃない。予言は〈知りたい生き物〉人間の憑き物のようなものだ。〈正気〉に返れば、ばからしいか、よくて微笑ましいだけだが、みんな、なかなか〈正気〉には戻れない。予言そのものよりも、このなかなか〈正気〉にもどれないことのほうが、人間の問題としては重要だし、オモシロイ。誰も教えなくても、子猫は上手に顔を洗える。それと同じように、誰も教えなくても、人間の子供は予言を〈理解〉し、信じることができる。本当にオモシロイ。

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あと、ついでにいうと「現在とはなんだ?」みたいなことで頭を悩まさせている連中がいるけど、そういう連中は、時間という観念に精神を汚染されたバカなんだろう。人間は存在しているとき世界を認識している。ただその状態があるだけだ。〈時間〉という「それとして仕分けられる特別な〈実在〉」が存在する訳じゃない。人間の世界認識の尺度として、なんとなく、そういうふうに言っておくと都合のいいものが〈時間〉で、その出所は、人間の世界体験そのものだから、言ってしまえば、〈実在〉の「ある側面」を人間がそういうふうに呼んでいるだけの、〈実在〉そのものからは何の保証もされていない観念、それが〈時間〉だ。だから、〈時間〉の構成要素である〈現在〉も、その定義の厳密さを〈実在〉に即して追求していけば、必ず思考の迷路に迷い込む。そもそもの〈時間〉の定義が、人間本位の、いい加減なものだから、〈時間〉に関するあれやこれやは、最初から、厳密さの追求には耐えられない。そんなものの厳密さを追求しても、結局は哲学者お得意の〈言葉遊び〉に陥るのが関の山だ。そういうのを本当の意味で時間の無駄という。

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〈時間〉は、人間の「〈実在〉の捉え方」の一つにすぎない。三次元世界という考え方で登場する〈縦〉〈横〉〈高さ〉のようなものだ。〈縦〉も〈横〉も〈高さ〉も、〈実在〉そのものではなく、〈実在〉そのものを〈直〉に構成する要素でもない。それらは、〈実在〉を一旦〈観念〉に翻訳したあとに初めて適用されうる「〈実在〉の捉え方」の要素なのだ。たとえば〈高さ〉。俺たちは、〈高さ〉のない世界というものを想定し、それを二次元世界と呼ぶ。この〈高さ〉のない世界は、〈実在〉ではなく、ただの〈観念〉だ。〈実在〉そのものから〈高さ〉を取り去ることは出来ない。〈高さ〉は〈実在〉そのものの要素ではなく、「観念としての〈実在〉」の要素だからだ。だから〈高さ〉を取り去れるのは、いつも「観念としての〈実在〉」からのみだ。「観念としての〈実在〉」から〈高さ〉という要素を取り去った後に現れる二次元世界は、だからもちろん〈実在〉そのものではなく、〈観念〉としての世界になる。実のところ俺たちは〈高さ〉のない〈実在〉がどういうものか分からない。たとえ話で、二次元世界は平面の絵のような世界だと教えられて分かったような気になっているが、俺たちの知っている〈実在〉としての平面の絵には必ず〈高さ〉(紙の厚みや絵の具の厚みなど)があるわけだから、俺たちのイメージしている二次元世界は、厳密には必ずいつもマチガっている。数学的手続きを踏めば、虚数を〈理解〉することはできるが、具体的な〈実在〉としての虚数を、俺たちはまるで思い描けない。それと同じだ。俺たちにとっては平面はいつでも見せかけ(錯覚)でしかない。〈本当の平面〉(実在の二次元世界)などどこにもない。

観念としての〈実在〉からは、〈高さ〉や〈広さ〉を取り去り、二次元や一次元の世界を想定することは出来る。だが、それを〈実在〉そのものとして捉え直そうとすると、一次元や二次元であると思っていたものが、ひとりでに三次元に戻ってしまい、それをどうすることも出来ない。だがそれは、俺たちが三次元世界の人間だから、二次元世界のことが理解できないのだ、と言うような話ではない。〈実在〉の世界を、〈縦〉〈横〉〈高さ〉に分解可能な三次元世界という〈観念〉に置き換えたときにのみ導き出される二次元世界とは〈実在〉ではなく、あくまでも〈観念〉でしかない。〈実在〉から〈観念〉は生み出されるが、〈観念〉に〈実在〉を生み出すことはできない。

俺たちが、それだと思って思い描いている二次元世界は、ドキュメンタリー映画のようなもので、現実そのもののように見えても、本質としては虚構なのだ。映画では20年の逃亡生活も2時間で見終えることが出来るが、2時間で見終える20年の逃亡生活は虚構と呼ぶ以外にないだろう。それは単に「20年の逃亡生活」という〈観念〉を表現したものだ。20年を2時間で済ませる〈実在〉などどこにもない。〈高さ〉に限ったことではない。一次元世界の前提となる「まったく広さ(もしくは幅)をもたない点(もしくは一本の線)」など、もはや、〈実在〉として不可能という以前に、論理的に破綻している。なぜなら、一次元世界の前提は「ゼロであり且つ1であるもの」を要求しているからだ。結局俺は何が言いたいのか? 〈観念〉には、常にそれに相当する〈実在〉が存在するとは限らないということを、知っておくべきだということだ。〈実在〉としての〈時間〉がどこにも見つからないで右往左往するのはアタリマエ。〈実在〉としての〈現在〉が定義できなくて、オロオロするのもアタリマエ。〈時間〉も〈現在〉も所詮は〈観念〉で、〈観念〉は結局のところ〈実在〉の〈地図〉に過ぎない。地図と実際の場所が常に必ず全く同じだという保証はどこにもないし、同じでなければならないという宇宙の摂理がある訳でもない。地図の正確さは、単に地図制作者のやる気や能力や意図の問題に過ぎない。〈時間〉や〈現在〉というものを〈実在〉の場で捉えきれないのは、要するに、人間の〈観念〉が、もとから、〈実在〉に対して不正確だという、ただそれだけのことなのだ。

(ゲルドルバ30,31,32より)

(2008年10月7日火曜日)

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