【〈生きる〉の周辺への走り書き】


いずれ朽ち果てる肉体ではなく、永遠に存在し続ける本当の自分というものがあるという確信は「自分自身が存在しなくなる」ということが〈理解〉できない人間が作り出した妄信にすぎない。

人間という生き物だけが、いずれ確実に自分の肉体は滅び、いわゆる死というものを迎えることを知っている。この「知っている」は、生き物にとって最大の不幸だ。

生き物の行動原理はすべて、生存欲に由来する。

生き物の存在理由はなんだと問われれば、それは生きることだと答えるべきで、それで生き物に関する全ては言い尽くしたと言っても過言ではない。

無数の生き物が、果てしなく繰り返しつづける、生きるという「闘い」。地球上の全ての生き物の中で人間だけが、この「闘い」の勝敗の行方をあらかじめ知っている。人間は、負けると分かっている勝負を、一生かけて繰り広げなくてはならない。それは究極の茶番だ。

生(せい)の〈敗者〉の空しさを紛らわす為に、人間は生きることの意味を探す。だが、そんな意味など客観的にはどこにもない。世の人々が口々に言う「生きる意味」は、それぞれの人間が、ただ、そう思うことにした、という以上の根拠を持たない。というのも、そもそも生き物はすべて、なにかの意味があって生まれ生きているわけではないからだ。生き物は、地球進化の成り行きで、〈生きる〉という現象を作り出し、その中を流れているだけだ。雨が降るのに、単純な物理法則以外の理由はない。生き物の〈生きている〉という現象も、単純な物理法則以外に理由はない。理由はそれ一つ。意味に至っては一つもない。

生きているという自覚がなければ、成り行きで〈生きている〉という状況に置かれていても、なんの問題も苦労も悩みもない。生きているという〈自覚〉は、人間の根源的な〈呪い〉であり、且つ、〈祝福〉だ。

(「ゲルドルバ23」より)

2008年8月26日火曜日 

HOME