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本人は不本意らしいが、ドーキンスが、人間は遺伝子の操り人形に過ぎないと言う認識(あるいは誤解)を世界の人々に広めてずいぶんと経つ。あるいは人間は遺伝子を運ぶ船にすぎないとも言う。この考えに、ロマンチストは反発し、ニヒリストは静かな賛辞を送る。
我々の実感はどうだろう? 我々は、そうとは知らず、遺伝子にいいように操られている存在なのか? 我々の日々の喜びも悲しみも苦しみも、全ては遺伝子の「意志」の「結果」なのか?
敢えて言おう。遺伝子など、所詮は、「ルール」でしかない、と。
どんなスポーツでも、ゲームでもそこには「ルール」が存在しする。「ルール」の誕生が、すなわち、スポーツやゲームの誕生である。
が、スポーツやゲームの存在意義の本質は「プレイ」にある。
このことに異議があるだろうか? 誰も異議などないはずだ。
確かに、ルールは規定する。だが、プレイはその規定を「跳躍」する。
遺伝子の存在と、人間と言うモノの関係は、このルールとプレイの喩えに尽きる。
と、ここで終わってもいい。が、かつて、ドーキンスの身も蓋もない物言いのせいで、夢も希望もうち砕かれた(といってもそもそも誤解なのだが)多くの恋に恋する乙女達の涙の「仇討ち」のつもりで、もう少しだけ続けてみよう。
我々にとって、もっとも身近な実在とは自分自身だ。宇宙も太陽も地球も、今我々が持っているそれらのイメージは全て知識から構築されたモノでしかない。例えば、地球が球体であることを実体験として持っている人間は一人もいない。サッカーボールの丸さを確かめるようにはいかないからだ。同じように、現在地球上の全人口が50億ほどだということも、ただ、計算と統計に基づく知識として、知っているだけだ。誰も、現実の全人類を数えたことはない。そこにはどんな「実感」も伴わない。
面倒だ。話を一気に飛躍させよう。
ここに、狂人がひとり登場する。なぜ、彼の頭がイカれてしまったのかは知らない。恋人にふられたのか、家族を目の前で皆殺しにされたのか、はたまた、ただなんとなくなのか。
ともかく、この狂人は、世界のあらゆるモノが信じられなくなっている。つまり、自分を取り巻く存在全てが、実は、幻に過ぎないのだという妄想に取り憑かれている。彼にとって、目の前にある珈琲カップも、横の席のアベックも、みんな彼の作り出した幻なのだ。それどころか、世界の国々も、あるいは地球という惑星も、宇宙という存在も、あるいは、今彼が頭の中で使っているこの言語でさえ、彼の作り出した幻なのだ。生命の進化の歴史も、量子論もすべて、彼の作り出した幻だ。人間の指が5本あることも、赤い色が赤く見えることも彼だけの幻だ。つまりは、彼にとって、本当は何も存在などしていないのだ。
そんな、徹底的に疑り深い彼でも唯一その存在を疑わないモノがある。それが、彼自身。すなわち、彼にとっての自分自身、「私」だ。人間の姿形をした彼の肉体なら、彼は疑っているだろう。もしかしたら、カエルのような生き物かもしれない。あるいは、脳味噌だけの宇宙人の様な姿なのかもしれない。あるいは、目にも耳にも感じられない単なる「意識体」なのかもしれない。そんな風に考えている。だが、絶対に疑わないのが、彼にとっての「私」だ。この悪夢の世界を見、さまよう「私というもの」の存在。これを彼は決して疑うことはない。なぜなら、事実彼は、その「私というもの」を通して、(現実か幻かはともかく)世界を体験しているからだ。
この圧倒的な、というか容赦のない存在感を持つ「私というもの」に取り憑かれた生命体。これが人間の本質であり、これこそが、宇宙の生命図鑑に書き込まれるべき人間の「特徴」だ。
どんなに狂っていても、あるいは体のあらゆる機能が失われ植物状態になったとしても、今挙げた「特徴」を備えている限り、それは「人間」である。
さて、戻ろう。
人間の定義が「私」というものが実在していると確信している生命と判明した今、もはや肉体的(物理的)な特徴や機能は、あくまでも二義的なものでしかないことが分かるだろう。
ならば、その二義的な存在でしかない肉体を構成するために機能する遺伝子など、最低限の敬意は払いこそすれ、いちいちご機嫌を窺うような代物ではない。
まだ分かりにくい?
我々には確かに「私」という確信がある。が、往々にして「私」は「遺伝子」つまりは肉体の要求に従わざるを得ない情況に置かれる。すなわち、食欲、性欲、睡眠欲などにわれわれの「私」は有無を言わさず従わされる。結局、我々は「遺伝子」の言いなりではないか?
そう、その通りだ。だが、そのことが即、「私というもの」が全面的に「遺伝子」の「支配下」にあることにはならない。むしろ逆で、そう言った「遺伝子」の「強要」に遭遇するたびに、我々の中の「私」は、その存在感(実在感)を強める。もっと言えば、我々は、そう言う状況下で、自分自身が「所属」する肉体との「違和」を痛感し、ますます「私」を明確化していく。その「違和」に自覚的になり、とことんまで追究していけば、最終的に、我々が我々自身だと思っていた、我々自身の肉体が、我々の本質である「私」にとって、実は単なる「環境」でしかなかったことに気付かされる。肉体の外にある一般的な意味での環境とは区別するためにこれを「内的環境」と呼ぼう。
「私」にとって、この身体という内的環境は、身体外の外的環境と何が違うのか? あるいは同じなのか?
結論から言ってしまえば、環境という意味で両者に違いはなく、ただ、影響力の度合いにその違いが現れるのみだ。
我々人間を含む地球生命体は当然ながら、地球環境を絶対条件にしている。地球という惑星の環境が、我々の存在を規定しているのだ。だが、その地球環境は、太陽系という環境が規定している。太陽系という環境は、銀河が規定している。つまり、「遺伝子」が身体という「内的環境」によって「私」に影響力を持つというのなら、同様に地球は遺伝子を通じて、太陽系は地球を通じて、銀河は太陽系を通じて「私」に影響力を持つということだ。ただ、「遺伝子」は「私」にとって、極めて「近い」位置にあるために(それだけの理由で)「私」に絶大な影響力を及ぼしている。そう、それだけのことだ。そして、この絶大な影響力が「私」と「遺伝子の意志」を混同させる。が、それはどこまで行っても実は「影響力」と言う意味しか持たない。だから、遺伝子は「私」を完全に操ることはできない。なぜなら、「私」は太陽系や銀河から影響は受けてはいても、あくまでも「独立」した存在であるのと同じ度合いで、遺伝子からは「独立」した存在だからだ。
「私」が地球や、太陽系や、銀河ではないように、「私」は「遺伝子」でもないのだ。
分かるだろうか? 分からなくても、もう疲れたからやめる。
人間だけが時として死に憧れる。そして、ごくまれに、実際に自ら命を絶つ。
理由は簡単で、遺伝子が「私」に対する影響力の行使をしくじるからだ。
遺伝子は知っているのだ。「私」が死に憧れやすい存在だと言うことを。
だから、遺伝子は必死で「私」の気を引く。「私」の目を死から遠ざける為に、快楽や空腹や苦痛や恐怖を与える。遺伝子は「私」の独断専行を何とかくい止めようとする。
遺伝子は知っているのだ。「私」にとって、この人間の身体が不完全であることを。
遺伝子が創り上げたこの人間の身体に「私」が不満を持っていることを。
哀れな遺伝子。君たちは、「私」を引き受けるのが早過ぎた。
君たちにとっては、「私」の存在は、荷が重すぎる。
2002.06.23
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