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なんかの式典で、国旗掲揚とか、国歌斉唱とかを強要されて、それを拒否したら給料減らされたりした教師達が、裁判で勝って、金を取ったとかなんとかそういうニュースがちょっと前にあった。で、そんな非国民的な教師や、そんなとんでもない判決を下した裁判官はけしからんみたいな意見が出た。で、またままそれに反論するように、いや、国旗(日の丸)とか国歌(君が代)には、前の戦争(第二次世界大戦)の負のイメージが強く残っていて、それに強い拒否反応を示す人たちがいるんだから、やっぱり日の丸とか君が代は強要すべきじゃない、あの判決は当然だ、すばらしいみたいな意見が出た。
どっちの意見も、まるで、お話にならんなあ。あーあ、今、俺の近くに住んでいる一億人くらいの人間のレベルって、みんなその程度なんだろうか? 違うよな。けど、すくなくとも、今度総理大臣になったオッサンは、そのレベルみたいだけど。人間は、なかなか、アタマがスッキリしないね。未曾有の出来事(「9.11」とかの鼻風邪みたいなヤツじゃない。世界中で何千万人が殺し合うみたいなことだ)が起きたときだけ、ほんの少しモヤが晴れたみたいにハッとなるけど、しばらくすると、もうぼんやりした原始人に逆戻りだ。
「君が代」と「六甲おろし」には何の違いもないし、「日の丸」と「ジオン国旗」にも何の違いもない。絶対的な価値の違いは全くない。ある特定の歌や旗が、特別な意味を持ち、価値を持つかどうかは、単に、それぞれの人間のこだわりと思いこみにすぎない。要するに、過剰な意味づけによって、主と客が入れ替わって、取り憑かれちゃうんだよな。「君が代」を今後絶対に歌うなといわれて、腹を切るヤツもいるだろうし、「六甲おろし」禁止に腹を立てて、車に火をつけるヤツだっているだろう。けど、「ああ、そうなんだ」で済む人間だっていくらでもいる。
俺たちが日本人というものを止めたとしても、俺たちは存在し続ける。俺たちは、この日本と呼ばれる土地で、日本語と呼ばれる言語を使って生活しているけど、俺たちの存在そのものは別に「日本人」でなくていい。ただ、人間なだけだ。この土地で暮らす人間の中には「日本」とか「日本人」とかいう〈呼び名〉に身も心も捧げて生きたいヤツもいるだろうけど、全部が全部そうだときめつけられちゃたまらない。
国歌とか国旗とか、要するに国というものに度を超した執着を持つ人間はどうしても存在する。逆に、そういうものに極端な拒否反応を示す人間も必ず存在する。この両者は、ベクトルの向きは逆さまだけど、根っこは同じだ。人間として、幼いだけなんだ。だから、俺たちは、そのどちらにも与しない。かと言って、両方を徹底的に糾弾することも、もちろんしない。小さい男の子が特撮ヒーローに夢中になる。それを、同じトシくらいの小さい女の子が、あんなの中にヒトが入ってるのよ、とか言ってバカにする。で、二人の間で、なんだか、本気の口げんかが始まる。俺たちはどちらかにつくか? つかないよな。どちらの言い分も適当に、へえとかなるほどねえとか言って聞いてやれば、それでいい。俺たちにとって大事なのは、その口げんかを始めた男の子と女の子が、つかみ合いのとっくみあいを始めたりしてけがをしたり、どちらかが拗ねたり、泣き出したりして鬱陶しことになったりしないことだからだ。二人の口げんかの原因になったものそれ自体は、俺たちには「どうでもいいこと」だし、口げんかの本当の原因が、男の子と女の子両方の、精神的な幼さにあることを、俺たちは知っている。けど、それを当人達に説明しても、まあ、わかりゃしない。だから、釈迦にならって、実践主義を敢行するだけだ。場を流して、適当にやり過ごし、みんなが悲しみや怒りから少しでも自由な世界をちょっとでも長びかせれば、それでいいんだ。
あとあれだ。サッカースタジアムの観客席の日の丸と、卒業式の日の丸と、街宣車の日の丸と、鳥肌実の日の丸は、デザインは同じでも、それを掲げる人間がそこにくっつけている意味とか価値とか気分とかは、まるで別物だ。当人達も旗振ってるうちに、一緒くたになってくることがあるけど、本来全く別物だ。
まあ、酒とおなじさ。全面禁止にする必要もないし、アル中になるまで飲む必要もない。嫌いなヤツもいるし好きなヤツもいるし、たまに飲んだら死んじゃうヤツもいる。酒をどうするかじゃなくて、人間がどうするかなんだ。違う人間同士が、どうやって、うまくやっていくかの問題なんだよな、結局、なんでも。
あ、もう、寝る時間だ。
(アナトー)2006.09.29
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