年初め、細木数子の番組を観ていて思ったこと

新年の頭から細木数子の話をありがたがって聴くくらいなら、田舎に住んでる自分のばあさんの昔話でも聴いてやれ。そのほうがずっといい。

にしても、酷いもんだ。細木数子は喋れば喋るほど、その凡庸さをさらけ出してしまっている。威勢だけはいいが、話の中身は、単なるばあさまの小言に過ぎない。凡庸さ故の価値みたいなものは、そりゃある。けど、それは別に細木数子でなくてもいい。俺のばあさん(とっくの昔に死んだけど)でも、あんたのばあさんでもいいんだ。だから、テレビ局の連中もその辺をカモフラージュするために、司会にお笑い芸人を配してみたり、まだ人生を始めてもいないような女子高生を相手に説教させてみたり、子供だましみたいな占いに仰々しいナレーションをかぶせてみたり、できるだけボロが出ないように細切れを繋ぎあわせたような編集をしてみたり、いろいろ工夫している。

けど、それでも、細木数子のお粗末さはごまかしきれない。細木数子が、したり顔で、人間や社会や世界についていくら喋っても、それが寄せ集めの知識を並べ直しただけの模造品なのは、もっと切実に深くしつこく人間や社会やこの世界について考えたことのある人間なら誰にでもすぐに分かる。細木数子も、自分ででっち上げたおとぎの国についてだけ喋っていればいいものを、下手に現実社会のことにくちばしをつっこむもんだから(テレビ局の連中にそそのかされてるのか、おだてられてるのかは知らないけど)、あんな道化を演じることになるんだ。あれでは、昔、さんまのからくりテレビでよくやっていたクイズに答える老人達と大差ない。少なくとも俺にはそう見える。だから、番組を通してみていると、なんだか、細木数子が気の毒になってくる。おだてられてその気になっているだけの、自分が作り上げた虚構の世界(占い)にしがみついて生きてきた孤独な成金ばあさんが言うことを、頭は視聴率のことでいっぱいのテレビ局のお偉いさんが、半笑いで(もしくは苦笑いしながら)聞き流している姿が目に浮かぶ。



占いとかとか死後の世界とかキリスト教の言う摂理とか、そういうものは全て、人間存在の無意味さを回避するための知恵でしかない。その、人間存在の無意味さを取り繕い、その本質に、ただそれだけで意味や価値があるかのようにふるまおうとする全ての発明のうちでも、占いはもっとも安直で原始的で、だからもっとも粗雑になりやすい。人間というものを取り扱う手つきが、ぞんざいで乱暴になりやすいんだ。確かに、占いも知恵である以上、一定の有効性は常に持っている。だが、それは、人間存在の本質から目を背けた対症療法的な有効性でしかない。人間の本質は無意味だ。人生は、その無意味である人間として既に存在してしまった自分というものを、持て余したり、折り合いをつけたりしながら進む道のりのことだ。死亡率百パーセントの人間の、そのどうにもやりきれない、まさに骨折り損のくたびれ儲けな人生という道のりに、夢や希望や試練や指針と言ったアクセントを与えるための古くからある知恵、それが占いであり、宗教や霊や死後の世界や神の摂理だ。だから、それらの知恵が、人間の無意味さを主張する必要はない。およそ人智の及び得ないような、偉大な意志や法則によって、人間は生かされ、存在しているのだ、と声高に叫んでいればいい。だが、そのすべてが、実は人間の無意味さという厳然たる事実が生み出した子供達なのだ。人間のベクトルを追いかけて行けば、最後の最後には、この無意味さに行き着く。だから、人間は、宗教や占いを発明して、ベクトルが指し示す先にあるものを覆い隠した。無意味な存在である自分という現実を生きるよりも、自分で作り上げた「人間が存在することには確かに意味があり、そしてそれを示すような法則が確かに存在している」という虚構(ファンタジー)の世界で生きるほうが、当然だが、人間には生きやすい。人間にとって重要だと思えるものには、必ず意味がなくてはならない。アリクイが蟻塚を探しまわるように、人間は世界に意味を求め続け、いまある姿になった。そんな人間にとって、そこに存在する当の本人に意味がない世界など、到底受け入れられるものではない。だが、それでも、人間存在に意味がある世界は、人間が人間として生き続けるためになくてはならないが、それはただ人間のためだけにある虚構の世界だということを忘れてはいけない。



占いの粗雑さは、この虚構の世界にどっぷり浸かりきっていることからくる。霊や神や死後世界と言った宗教的な発明が、ことあるごとに人間の本質とは何かというところに立ち返っては、そこで先鋭化されたり、逆に緩和されたり、あるいは新たに生まれたり、淘汰されたりするのとは違って、占いは、ただひたすら虚構の世界の構築にまい進する。占いは、それが詐欺まがいのインチキ占いでない限りは、占い師一人一人の素養と技量が全てで、それ以上の深度も広がりも一切必要とはしない。どこどこでいついつに戦争が起きるとか、外国で旅客機が落ちるとか、そういう一か八かの言ったもん勝ち的な占いは別にして、相談者一人一人に対して行われる占いの的中率は、その占い師の、他者に対する共鳴力や精神的な浸透力とでもいうような才能のいかんにかかっている。それは、占い師自身の個的な心象を、一旦普遍化し、目の前の相談者の言葉や表情や仕草の微妙な変化をフィルターにして、もう一度個的な心象に戻す、一連の精神活動のことで、こう書くと大げさだが、要は、他人の気持ちになって考え感じてみる、という、ごくありふれた能力ことだ。優れた占い師は、ヒトよりこの能力に長けている。占い師とは、言ってみればそれだけの者だ。そして、この部分でだけなら、占いは少しも粗雑ではない。占いとは、カウンセリングであり、人生相談なのだから。占いが粗雑になるのは、その本分が、儀式や形式や方法に侵食されるときだ。



亀甲、カード、水晶玉、星座と、占いの種類は多種多様だ。だが、どんな占い方法であろうと、本来、そうした占い道具や儀式や形式は、占い師が自らの優れた精神的浸透力を発揮するためのキッカケを与えるものでしかない。トランプをめくろうと、水晶玉を覗こうと同じことだ。要は、そうした一連の形式的な動作を通して、占い師が自分自身をその気にさえすればいいのだ。だから、本来、占いの方法や、その占い法の背景となる世界観(虚構の世界)は、ただ、その占いをする占い師にとってのみ有効なもの、つまりは信じるに足るものであればいい。占いの方法や道具や儀式自体は、占いをする占い師一人が本気で信じられれば、蝉の死骸でも、ネコのヒゲの数でもなんでもいいのだ。

本来、占い師がインスピレーションやキッカケを得るためのものでしかない占いの方法や道具は、その印象の強さから、それこそが占い主(占いの答えを出すもの)のように受け取られてしまう。それは、相談者ばかりではなく、占い師自身にも言えてしまえることで(というか占い師ならなおさらそう思ってしまいがちで)、だから、占いが外れた時には、実は占いの方法を細かい所で間違えていたとか、正しい答えが出ていたのを占い師が読み違えてしまったのだ、というような話になる。この先に待っているのは何か? 簡単だ。占いのやり方や道具に、より一層の厳密さを求めるとか、導き出された答えを正確に読み解くために、もっと詳しくその占いの背景となっている世界や法則や歴史について勉強するとか、当たると評判の他の占い法を取り入れてみるとか、そういうトンマな姿だ。これは何かと言えば、つまり、占いが、占う対象である人間を置き去りにして、より形式化・儀式化して、機械的な処理へと向かうということだ。その結果、規則性、偶発性、分類、数学的計算、そういう要素が含まれるものを次々に取り込み、虚構の根拠を別の虚構や本当は何の関連もない科学的な新知見に求めるようなことを繰り返しながら、目の前であっても素人には何が行われているのかも分からない、一見複雑怪奇な、しかし実態は鉛筆サイコロと変わる所のないものを占いと称し、商売をするインチキ占い師が大金を稼ぐようになる。占いは、ただ相談者の顔を見て、話を聞き、何かを言うようなシンプルなものよりも、その占いを実行するのに、込み入った儀式や特別な知識が必要とされるものの方が、ありがたみと信頼度が高いように、だから大枚を叩いてもいいように相談者には思えるからだ。だが、占いは、儀式が複雑さを増し、特別な知識の必要性が増すほど、その占いに占い師自身の能力を必要としなくなる。占い師自身に鋭い感受性や、深い洞察力がなくても、複雑怪奇に、ある意味高度化した占いはその教科書に答えが全て書いてあるからだ。かくて、占い師の顔は、相談者ではなく、占いの教科書の方にばかり向けられることとなり、かつては存在していたかもしれない、占い師ならでは観察眼や洞察力や感応力は失われ、彼(彼女)は経文読みの経文知らずに成り下がる。


細木数子が、占い師としてかつてどれほどの能力を持っていたのか俺は知らない。今と同じで、最初からてんで話にならない三流インチキ占い師だったのか、それともきらめくような才能にあふれた超一流占い師だったのが徐々に凡庸化、偏狭化していったのか、全く知らない。別に知りたくもない。確実に言えるのは、今、テレビでよく見かける細木数子の人間への洞察力や時代を見通す目は、そのどちらもが一流占い師のそれではないということだ。せいぜい多少裏社会にも通じているらしい飲み屋のママレベルだ。それは、ある程度の人生経験を積んだ人間なら誰でも持つことのできるレベルの洞察力や世界観でしかない。だから、逆に、彼女の物言いは世間的にウケがいい(視聴率が取れる)のだとも言える。



人間は生きた存在として社会の中で機能するときにのみ、意味を持つ。社会が存在しなければ、人間に意味はない。ただ、生き物として在るだけで、それは江戸時代に携帯電話端末があるのと同じで、無意味な存在だ。社会があるから人間には意味がある。では、社会そのものに意味があるのか? 否。3人以上の人間が存在する情況を社会と呼ぶなら、その構成員にとって、2人以上の他者が存在するとき、人間には意味があると言える。つまり、社会に意味があるのではなく、社会を構成する人間に意味があると。宇宙にただ一人きりの人間と言う場合、その存在に意味はない。



占いの言葉が持つ独特の説得力は、それが占いだからではなく、言葉だからだ。言葉によって、自身とそれをとりまく世界を認識している人間にとって、発せられ受け取られた言葉そのものが自分であり世界になりうる。実地に体験をしなくても、人間は言葉によって体験をしてしまう。そして、それがいかに根拠のない口からでまかせの言葉に拠るものだとわかっていても、人間(の脳)はそれを一つの事実として体験する。だから占い師が、「これこれこういう理由で今年のあなたにはいいことはない」とか、「今日運命の人に出あうでしょう」などと言葉にした瞬間に、それを伝えられた人間(の脳)は、それを一つの現実として体験してしまう。頭でいくら「これは単なる占いだ」とか、「まるで根拠がない言葉だ」とか思っていても、言葉が伝えられ、脳がそのイメージを浮かべた時点で、それは現実の体験となる。喩えば、キスシーンで演じるキスと、プライベートで恋人とするキスの違いは、女優の心構えや気分としてはあっても、キスをしたと言うこと事実に違いはない。それと同じで、実地の体験も、言葉に拠るイメージの体験も、脳にとってはまずは同等で、その違いはあとから理性が事実との整合性を確認することによって識別される。

俺たちは、それが実体験だったのか、誰かから聴いたのか、夢で見たのか、映画で見たのか、単に想像しただけなのかが、時間が経ってしまうと区別が付かなくなってしまうことがままある。実体験であろうと、聞いた話だろうと、その場面に遭遇したとき、脳自身が描き出したイメージを、俺たちは体験している。そして、そのイメージに対して、これは事実だとか、これは虚構だとかの評価を瞬時に下し、タグ付けすることで、この世界の現実を生きている。占いの言葉の説得力は、その、実地の体験もただ聞いただけの話もとりあえずは現実としてイメージし体験するという、人間の世界体験の仕組みの不具合が生み出す錯覚にすぎない。そしてその錯覚は人間である以上逃れることはできない。ただ、そういった人間の認識力の限界を自覚し、つまらぬことに惑わされない慎重さを身に付けるしかない。


占いの言葉が、それを受け取る人間に与える効果は、占い師の技量や実績によって嵩ましされるのは確かだろう。だが、本来、誰が言っても効果があるのが、占いの言葉(予言)だ。例えば、去年やっと言葉を喋りはじめたような子供が、ふいに隣の部屋からやってきて、いま田舎から訪ねてきたばかりの祖母に向かって「さよなら」と呟く。そういう場面に出くわしたとき、俺たちは自分の心に一瞬影が走るのを感じるだろう。その言葉が、祖母に対する死の予言のように受け取れてしまうのだ。言葉とは、人間にとってそういうものだ。だから、占いの言葉の説得力は、それを聴く俺たちが人間であるが故のもので、占い師の言葉(予言)そのものにナニカがあるわけではない。このことは、占い師の言葉の実際の的中率(つまり占い師としての能力の優劣)とは関係のない話だ。よく当たると評判の占い師の言葉でも、たまたま出あったボケ老人の戯言でも、それを受け取った人間は、必ずなんらかの心的な動揺を覚える。人間にとって、言葉とはそういうものだということだ。

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細木数子によれば、今の日本人は相当に程度が低いらしい。なるほどそうかも知れない、それは当たってるよと俺は思った。細木数子程度の人間の言うことを大勢がありがたがって聴いてるんだから、そりゃ、今の日本(人)は相当に程度が低いよ。

(アナトー)2006.01.07

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