正しいということ
「白い巨塔」は面白いなあ。田宮版を見てるから、どういう展開になるかは、だいたい覚えてるんだけど、見ちゃうよなあ。あのドラマが面白いのは、いいヤツと悪いヤツの対決とか、そういう「分かりやすいけど、そりゃウソだ」ていうものにならないところにある。登場する人間たちの、それぞれの価値観、もっといえば「人として生きつづける意味」の対立の物語だってところがいいんだ。

俺らがおおざっぱにつかまえてる(と思っている)個人を越えた超越的な「善と悪」、「正しいこと」と「間違ったこと」の色分けなんて、人が実地で生きて行く時には、殆ど機能してないように見える。人が生きて来て、ある状況に置かれた時、どの道を選ぶかを決めるのは、超越的な善悪や正誤の認識ではなくて、ただ、彼にとっての善悪や正誤だ。そんなことは誰でも分かってる。「自分にとって、正しい(善い)とおもったことをやるだけだ」と、物語の主人公は叫ぶものだ。けど、この、「自分にとって正しい」は、いつも、どこかで超越的な善に接続されたものとして、叫ばれる。人間が、「自分にとって正しいこと」という時、それは「一定の留保(あるいは譲歩)」を伴なった「完全なる善」を意味している。この時現れる「一定の留保(あるいは譲歩)」は、「完全なる善」への距離感の現れだが、俺らは遂にその「距離」を正確に掴みとることはできない。俺らが人間という存在の内に留まる限り、要するに「同時に全ての場所にいる存在(神)」にならない限り、「完全なる善」は見えてこない。だから、人間は、「完全なる善」を気配として感じる以外にない。存在するような気がするが、直接目にすることはできない。それが人間にとっての「完全なる善」だ。はっきりとは認識してないのに、それは確かにあるらしく思える。人間は、それに向かって留保付きの善を繰り返しながら生きている。そして、その態度自体を、一つの「完全なる善」とみなすというのが、無能な俺らの、生き続ける知恵になっている。

けど、本当は因果が逆なのかもしれない。なにかを正しいと思いたいときに現れる距離感が、俺ら人間に、「完全なる善」を幻想させているだけなのかもしれない。この、離れている、遠ざけられているという感覚は、単に生物学的な理由によるのかもしれない。常に判断の正誤(善悪)を保留状態にしておく(暫定的にしておく)というのは、例えば、生物が生き残って行く上で有効な戦略だからだ。

なんだか言い回しがカタクなったなあ。
要するに人間は誰でも、個人個人の認識レベルでは、常に「正しいこと」しかしないということだ。「白い巨塔」を見てると、それを感じて、面白いんだよな。


(初出 2004.01.30「Annatto's Easy II」 )

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