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オレがいつも笑っちゃうのは、世界中どこにでもある「終末思想」のどれもこれもが、いつも「生き残る少数」や「選ばれる者」を用意していることだ。確かに選ばれたり、生き残ったり出来る人々を想定しなけりゃ「終末思想」は成り立たない。「終末思想」の正体は、滅びることをよりも、救われる(助かる)ことを売り込むもんだからだ。だから、いかさま宗教の言う「世界が滅びるとき」なんてものには、少しも「人類滅亡」に対する当事者としての切実感がない。そりゃ、当事者意識はないよ。なにしろ、「自分たち」は救われ、存在し続けるんだから。
ついでに言えば、キリスト教の言う「最後の審判」は、死んだあとの人間のハナシみたいだけど、そうじゃない。あらゆる宗教の言う「死んだあとの世界」は、「死の現実」を拒絶することで生まれる「延長された生の世界」でしかないからだ。人間は、「死んでも生きている存在」でありたいんだ。
だから実際のところ人類は、今まで、「全人類の滅亡」というものを本気で考えたことが一度もない。と言うか、考えられないんだ。自分たちが(人類が)いなくなった後の世界を想像することは出来る。「この宇宙から人類が消え去って、はや一年」と文章に書くことも簡単にできる。けど、それは傍観者の視線だし、傍観者の回想だ。いや、そうじゃない。人類にとって、本当の意味で人類が滅亡すると言うことは、そういう「傍観者」でさえ、存在しなくなるということだ。この絶対的に虚無的な情況を、その「当事者」としてどう理解すればいいのかが人間には分からない。「人間死んだら死にきりだよ」ってクールに言いきれる人でも、人類そのものがまるっきり滅び消え去ってしまう事態を、受け入れることは難しい。みんながいっぺんに死んでしまうならオレは気にしないよって? そんなことを言えるのは、まだ、人類が滅亡するとはどういうことかを、徹底的に考えてない証拠だ。
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人間にとって、個体としての自分が死んでしまうこと、これは、確定した将来の現実だ。その現実を受け入れた上で、個々の人間の殆どが自殺もせずにとりあえず生き続ける理由は二つある。一つは「身体」が生き続けることを要求するからで、もう一つは、自分一人が死んでも人類は生き続ける(存続し続ける)という根拠のない確信があるからだ。「身体」の要求としての「生」については、また違う話だからここではこれ以上は触れない。ここで問題にしたいのは二つ目の理由の方だ。俺達が心の奥底にきっと持ってる「人類はたぶんこれからも存在する」という根拠のない予感。これは一体何なんだろう?
今生きている個人としての人間は誰であろうと死んだことがない。極たまに生まれ変わりや「臨死体験」を主張する者もいるが、一般には、今生きている人間は、誰も死んだことがない。だが、今生きている人間も、自分と同じ人間が過去に何人も死んだことを知っているし、誰かが死ぬという現場に立ち会ったりすることもあるので、同じ人間である自分の死もまた避けられないものなのだと観念するようになる。つまり、一人の人間としての自分自身の死は、それぞれの今生きている人間にとっては常に未然でありながら、既定の事実として俺達の中にある。分かりやすく言うと、俺達は間違いなく死ぬということを、大勢の死者たちの現実によって、まだ死んでもいないうちから知っている。だが、人類はまだ一度も死んだ(絶滅した)ことがない。そのことを確かめるのに特別な研究や調査の必要はない。もし、人類がかつて一度でも絶滅したことがあるなら、今、俺達がこうして生きていることが、絶対の矛盾になるからだ。
「種の死」(つまり絶滅)と個体の死を同列に並べることに無理があるとは思わない。「私」という存在が「身体」という「環境」によって成立しているように、人類という「種」も、それを取り巻く生活環境、地球環境、宇宙環境によって成立している。違いはない。あらゆる物差しが極端に違うことで俺達は勘違いするけど、人類という「種」も、それを支える環境が致命的に変化すれば「死ぬ」しかない。俺がここで言ってる環境の変化は、緑を大切にしましょうとか、オゾン層の破壊をくい止めましょうとか、そういうレベルでどうにかなるようなものじゃない。太陽が爆発するとか、突然の超巨大隕石が地球を粉砕するとか、もっと極端に、宇宙そのものがビッククランチとかで消滅するとか、そういう人間にはどうにも出来ない環境の変化のことだ。
俺達の中にあるのは、個人としての人間は今まで無数に死んできたけど、人類は今まで一度も滅びたことがない。だから、もしかしたらこれからもずっと人類は滅びないかもしれない、という理屈だ。今まで起きなかったことは、これからも起きなくて不思議はない、と。なるほど一見すると、人類の滅亡は、個人の死のように確定したものではないように思える。だが、少し客観的に眺めれば、人類は必ず滅亡することが分かる。どんなにうまく立ち回っても、愛に溢れた行いをしても、全宇宙の有り様を悟っても、人類はいつか必ず滅びる。俺達がその可能性を極限まで低く見積もるのは、それが、人間という「死すべき存在」にとっての最大のタブーだからだ。
どうせ必ず死ぬ人間が、「身体の要求」とは別の理由で生きていこうとするのは、自分が死んだ後も、永遠に続く可能性のある人間の世界があとに残ると考えているからだ。自分が去った後もこの世界は残っていると考えているからだ。だから、子供とか、歌とか、偉業とか、想い出とかを、その「永遠に続くであろう人間の世界」に残そうとして生き続ける。
そうすると、いわゆる「死後の世界」という「コンセプト」は、人間が人間であり続けるのにとても有効だということが分かる。「死後の世界」という「コンセプト」によって、人間は「人類の滅亡」という事態を決定的に「回避」できるからだ。たとえ、この宇宙が消滅するというような最も絶望的な情況に陥ったとしても、人間という存在の本質を、肉体のような物理的なナニカとはベッコの魂とか意識とかに乗せ変えれば、そういう物理学的に決定的な破綻ですら無効にできる。つまり「人類の滅亡」の可能性を完全にうち消すことができる。どうせ死ぬと分かっている俺達を自殺から遠ざける「人類はきっとこれからも存在する」という根拠のない確信は、もとをたどれば、まさに「このオレは将来確実に死ぬ」という認識が生みだしたものなんだ。つまり「人間は必ず死ぬ。けど、肉体が死んだくらいで、だれでもないこの自分が存在しなくなるなんてことはない。魂とか意志とか思念とか、そういう肉体的ではないナニカとして、存在し続けるはずだ。それは、きっと自分一人だけのことではないだろう。人間は誰でも死んだ後は、別のナニカになって、この世界とは別の場所に存在し続けるに違いない。だから人類は永遠に存在し続ける」と、俺達は考えていることになる。人間は自分が死ぬことを受け入れることで、「死後の世界」を作り出し、その「死後の世界」を、人類が死(絶滅)を回避するための迂回路にした。賢いやり方だ。人間は、もう決して生き続けるモチベーションを失わずに済むからだ。けど、それはゴマカシにすぎない。人類はいつでも(明日でも)滅亡する可能性があるし、必ずいつかは滅亡する。そして、滅亡したら「その後」なんてものはない。何千年、何万年の人類の歴史もいつか水泡に帰する。その現実を受け止めた上で、それでもそれぞれの人間が生きていけるようになれば、人類も大したもんだと、オレは思うけど、そんなのきっと無理だとも思う。
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地球上に住む他の生き物は、自分が死ぬ存在だということを知らない。だから当然、自分たちの「種」の絶滅について心配もしない。人間は、自分たちが死ぬ存在だと知っている。にも関わらず自分たちの「種」の絶滅については考えない。その理由の一つは、個人としての自分が死んでしまうということがどういうことかもちゃんと掬い取れてないのに、さらに大きな「種の死」など、まったく手に余るからだ。もう一つの理由は、個人の死という問題に取り組むうちに拵えられた「死後の世界」という、非常に便利な「延長された生(せい)」によって、たとえこの先この世界(地球・宇宙)にどんなことが起ころうと、人間は存在しつづけることが出来るという理屈(屁理屈)が可能になったからだ。
Annatto shiquiso 2004.09.01
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