|
以前、じいさんが中学生の孫を散弾銃で撃ち殺して、自分もそのすぐあと散弾銃で自殺したという事件をテレビで見た。しかも、ばあさん(じいさんの妻)が見ている目の前で。原因は口論らしい。「ゴロゴロしてないで、勉強しろ」「うるせーな。なんべんも同じこと言うな」とかなんとか、まあ、どうってことない、フツーのアレだ。で、テレビの出演者が、「どうしてこんな些細なことで?」みたいな発言をしてたけど、誰かが誰かを殺そうとする時の理由に、些細も重大もない。っていうか、殺す理由が重大になればなるほど、実際に殺すまでになるには段階があるものだ。理由は些細な方が、そういう段階を踏まない分、本当にヤっちまう確率は高い。
人間は、さまざまな行動を「意識」によってコントロールしているようにみえるけど、行動に先立って「意識」が決定している行動は、実はそんなに多くない。人間の殆どの行動は「意識に先立って」あり、その行動の理由は意識がそれらしく滑り込ませた「あと付け」のものだ。人間がある行動に出ようとしたとき、「意識」は、いつも一歩出遅れている。「意識」はいつも「行動」の後ろ姿を見ている。出遅れた「意識」が「行動」をコントロールできるのは、その「行動」が何なのかを既に知っていて、だから「対処法」が分かっている場合だけだ。先行した「行動」をそのままにするべきか、引き止めるべきか、修正を促すべきかを「意識」が知っているから、あとから行っても間に合うんだ。それは、きっと、コンマ何秒かの世界の「駆け引き」なんだろうけど。「行動」と「意識」の間ではそういうことがいつも起きている。
おおむね平穏な、日常的な「行動」の多くについて(生まれて何年も経ってない子供のそれは別にして)「意識」は既に体験済みで、だから、あとから来てるのに「そう、それでいい」「思った通りだ」的な態度で、自分の「行動」を説明することができる。けど、全く未経験な(全然知らない初めての)「行動」が目の前で走り出した時、「意識」はそれがなんなのか、どう対処すればいいのか分からず、立ち尽くしてしまう。それも、さっき言った通り、ほんのコンマ何秒かの世界のことで、本人は「立ち尽くしてる感」は全然ないんだけど、結局、そのコンマ何秒かが間に合わなくて、たとえば、取り返しのつかない「行動」を取り逃がしてしまう。で、たとえば、今回の事件ように、いつもはかわいがっている孫を散弾銃で撃ち殺してしまったりする。
この事件のじいさんは自分のしたことが説明できなかったはずだ。だから、第三者が理由が分からないのは当たり前だ。人間の「行動」の「本当」の理由と、「意識」があとから考えてあてがう理由とは、もともと、何の関係もないものだ。ただ、「意識」はその経験則に従って、自分の「行動」に統計的な、ある意味適当な答え(理由)をかぶせているだけだ。だから、見たこともないし、体験したこともない(自分自身の)「行動」には、どんな理由も見つけられない。あとから、じっくり考えて、「こういうことだったんじゃないか?」って言える程度だ。でも、同じ「行動」を何度も見ているうち(体験しているうちに)「意識」は、「こうだったんじゃないか?」を「こういうことだ」に変えていく。最初はよく分からなかった自分の「行動」が、自分が及び腰で差し出した「理由」で、うまく説明できること、生きていく上で通用することを学ぶからだ。でも、そうなるためには「繰り返し」が必要だ。今回のこのじいさんみたいに、一回きりの体験では、どうしようもない。
今回、このじいさんが生まれて初めて体験したのは「孫に対する抜き差しならない殺意」だ。それが目の前にヌッと現れニヤリと笑ったその瞬間、じいさんの「意識」はそれが何なのかわからず、(多分)いつもより余計に出遅れてしまった。「意識」が駆けだした時には「行動」は終わっていた。
こういうことは、人間である以上誰にでも起こりうる。精神的にというよりも、ハードウエア的に(脳の仕組みが)そうだから仕方がない。だから、「意識」は常に「行動」に出遅れることを肝に銘じて、その出遅れを取り戻すため、面食らって立ち尽くさないための心の修練っていうか、精神的な「返し技」をできるだけ多く身に付けておかなくてはいけない。ま、大変だけど。
Annatto Sixo 2004.05.09
|