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以前、京都に居たとき、例の阪神淡路の大震災があった。幸い京都はどうと言うことはなかったんだけど、それでも結構揺れて、面白がったりして、家に帰ってテレビつけてひっくり返って驚いた。
で、その時に考えたのが、テレビとかそういものが発達して、以前なら知りようもなかった離れた場所の災害やらなんやらを、ほぼリアルタイムで知ることができるってことの奇妙さだ。阪神大震災のあった時刻、俺は起きていたし、京都の町は全然どうってことなかったから、一緒にいた連中と「結構でかくて面白かったなあ」みたいなことを話して笑いながら家に帰ったんだけど、家に帰ってテレビで神戸の惨状を知って、さっき笑い話のネタにした地震がとたんにシビアなものに変わったわけだ。京都にいた俺には、でかいけどどーってことない地震が、テレビで震源地近くの様子を知ることで、どーってことあるものに変わってしまうことの、なんていうか、人間の世界認識というか現実理解というものの本質的な問題みたいなものを考えたわけだ。つまり、人間が世界を認識するとき、その認識内容とでも言うべきものは、結局は、どれだけ広範囲に、そして詳細に、その体験した事象の「情報」を得るかによって、全然違ったものになるんだ、ってことの実例を体験したんだよ。世界中が異常気象にみまわれて、これは地球的大問題だって認識も、そういう情報を得ることができなければ、そもそも起こりえない。つまり一人の問題意識の高いお嬢さんが、不安になったり、やる気を出したりってこともないわけ。なんていうのかな? 科学技術の発展状況に応じたその時々の世界認識ってものの、その「確かさ」に纏わりつく無常さっていうか、儚さっていうか、心もとなさっていうか、そういうものが、結局は人間の無常さや儚さの本質に通じるんじゃないか、影響するんじゃないかって思ったわけ。
例えば、10年後、地球に激突する観測不能なほど小さな、しかし地球生命にとって致命的な小惑星が、今日、今、この瞬間に、それまでの軌道を外れ、地球へと向かう進路をとったとしても、俺らにはそんなことは分からないから、結構平気で、こんなしょーもないことを書いていられる。でも、本当のこと言えば、その「平気な状態」は「誤り」なわけでしょ? もっと騒いだり慌てたり対策を講じたり、絶望的になったりするのが地球生命人間としては「正しい」状態なんだよな、きっと。俺らが、状況に対する認識というか、態度を、こんなふうに「誤る」のは、今現在の俺らが、そういう遠い宇宙での情報を知り得るだけの科学技術を持っていないという、ただそれだけが理由なんだ。そこに奇妙なモノを感じるんだよ。
人間っていうものは、いつでも「知り得る範囲」の世界の中だけで生きてきたし、それ以外にやりようがない存在だ。知り得ない事象なり存在なりは、常に人間の「世界」の外にあるから、結局「関係ない」ことなんだ。関係ないってことは、つまり、そんなものは「ない」ってことだ。「ない」ものに、人間は関心も興味も恐怖心も問題意識も持ち得ない。だから、いまの小惑星の話だと、「平気な状態」でいる方が、人間としては「正しい」ってことになる。究極的なナニカ(例えばカミサマとか)から見れば「誤り」でも、人間としては「正しい」。で、普通に人間として生きて死ぬだけなら、それで充分なんだ。けど、人間は、そこで立ち止まらずに、その「正しさ」が結局は条件付きの「正しさ」なんだってことを「知り得る」ってところに行ってしまう。そこに、人間という存在の「業(ごう)」を感じる。人間は、自分にとってまだ存在してない「世界」を「先取り」して「体験」しようとする。科学技術が発達するに従って、「情報」はより遠くからより迅速に手に入れることが出来るようになる。これはつまり、人間の感覚が、空間的にどんどん拡張していくということだ。より遠くまで見ることが出来る目、より遠くまで聞くことが出来る耳を持つということだ。それから、より速くより遠くへと移動する足も持つようにもなる。いちいち個別に取り上げる必要はないだろう。要するに、大方の科学技術は、労力と時間の「消費」をできるだけ抑えるために発達して来たわけだ。「より簡単により速く」が人間の科学技術発展の根っこにある原動力だ。で、この「より簡単により速く」の正体は何かって言えば、それはもう、「未来をより遠くまで先取りする」ってことなんだ。でも、この「未来をより遠くまで先取り」しようとする衝動というか欲求は、別に人間に固有のものじゃない。食う食われるの世界で生きているあらゆる動物に、あまねく存在する衝動であり欲求だ。時間的に先行するということは、生き残るための基本的な戦略だ。というか、生き残り合戦とは、つまりは、時間的にどれだけ先行できるかってことだ。見つかる前に見つけ、聞かれる前に聞き、追い付かれる前に逃げ切る。この星のそこら中(空の上から海の底、土の下まで)で起きている「日常」の風景だ。人間の独自性は、その衝動・欲求が自分自身の存在可能な限界点を越えてしまってもまだ尚突き進むところにある。
ただ、生まれ、生き、死んでいく一人の人間としてなら、本来必要もないくらい強力な「未来をより遠くまで先取りする能力(手段)」を手に入れてしまった人間は、自分が生きていく「世界」に広大な「余剰」を持ってしまった。人間は、実際に今見て体験しているわけではないが、その気になりさえすれば見て体験できることが出来る「未見の世界」が確かにあることを、自分の世界認識の中に常に折り込み続けて生きている。今まで見えていなかったモノが見え、聞こえなかったモノが聞こえるようになるという可能性を、自分の世界認識に繰り込むことが出来るのは、この地球上では人間だけだ。自分の感覚を拡大・強化する科学技術を持たない人間以外の生物には不可能だ。
だから俺ら人間も、「大抵のことは出来ないし、殆ど何も知らない」って意識を常に持ち続けてなければ、それこそただの「God's Monkey」で終わってしまっていただろう。猿は自分の認識できる世界だけが世界だと思ってる。人間は「自分には認識できない(出来ていない)世界がある」ってことを知っている。だから人間なんだ。その辺の違いが、ヒトとそれ以外を分ける大きなポイントだ。
ところで、こころはどうなんだろう? こころは、無限に拡大・強化されていく感覚を認めることは出来ても、それによって得られた情報をうまく処理することがあまり出来てない気がする。様々な感覚器から取り込まれた情報をもとに、こころは、自身の「内的世界」と現実の世界との整合性を保っている。けど、感覚があまりに拡大・強化されすぎると、そこから得られた情報を、うまく自分の「内的世界」に取り込むことが出来ずに、世界認識に「ダマ(←小麦粉をきちんと混ぜなかった時に出来るアレ)」を作ってしまう。この「ダマ」が、人間の「内的世界」と現実の世界との間に隙間を作って、一種の「虚構感」のようなものを生み出す。自分自身の「内的世界」もアテにならないし、外の現実世界もどうも信用できないという、人間ならではのあの感じだ。
で、最初に戻る。
京都でどうということのなかった地震が、神戸のニュース映像を見たことで、自分の中で重大事に変わる。この時、正しい現実理解はどっちなんだって言えば、あの地震は重大事だった、とそういうことになる。頭で考えればそうだ。けど、こころはそうは感じていない。あの時京都にいた俺にとって、あの地震はやはりどうということはないもので、実感としての現実理解はそれを超えることが出来ない。そこにあるのは、拡大・強化された感覚と、それを追いきれないこころとの確執だ。神戸の被災映像を見た時の奇妙な感じは、この確執が生み出す「虚構感」にあったんだろう。そして、その「虚構感」を生み出す大本の原因である、拡大・強化されていく感覚としての科学技術は、その未達性というか未完性のせいで、二重に、俺ら人間に対して、「世界」の無常さや、儚さや、心もとなさをもたらすんだ。
Annatto Shiquiso 2004.01.11
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