ツール・ド・おきなわ 2005
期日 : 11月13日(日)
会場 : 沖縄県 名護市・沖縄本島北部
カテゴリー : 市民
距離 : 200km
天候 : 曇時々雨
ツールド沖縄市民200kmの参加報告です。
パンクに見舞われ、31位に終わりました。
朝からどんよりと低い雲がかかっていて、ところどころで、雨の降った形跡もあり、30km過ぎあたりから路面が濡れている箇所がありました。そのせいか、55km付近で後輪がパンク、ニュートラルホイールが集団のすぐ後ろにあると思ったら大間違いで、これがなかなか来ない。5分ほど待ったでしょうか。ようやく機材車が到着して交換、しかし交換してくれる人が手際が悪くてなかなか入らない。ずいぶんタイムロスして、今から走り始めても一人旅の末タイムアウトになってしまうのかと思い、意気消沈。完走できなかったら来年はやめようかとも思い始める。
しかし、スタートしようとするとちょうどちぎれ集団3人が通過したので、すぐさま飛びついた。聞けば3人ともパンクしたそうな。機材車がなかなか来ないのはパンク多発が原因だったのかも知れない。3人でローテを回しながらとりあえず走り始めるが、1人はまるで引けない。時速35km/hでもぜいぜい言っている。この程度の力でなんで200kmに出ているのか不思議なぐらい。あと2人はまあまあだが、このメンバーであと140km行けるとはとても思えない。せいぜい100kmでタイムアウトがいい所だろうと思い、もはや完走はあきらめざるを得ないと思っていると、前方にやはりパンクで1人旅のセレーノBR-1江藤を発見。吸収すれば少しはスピードが上がると思い力をこめると、さっきぜいぜい言っていた1人が切れたが、無事吸収に成功して再び4人になった。
さすがBR-1今までの3人とは全然踏み方が違う。ペースも40km/h程度に上がって、そのまま70km地点に到達、いよいよ普久川ダム350mの登りに入った。すると1人はすぐに切れ、頂上少し手前でもう一人切れた。頂上近くになるとようやく集団からちぎれた市民200kmの選手が一人、また一人と前から落ちてきた。集団に復帰できるかも知れないという希望とともに力が湧いてきた。すると今度はセレーノ江藤がぜいぜい言い始めた。少しペースを抑えてあげると、「速いですねえ」と驚いた様子。それもそうだ。あの厳しい実業団飯田BR-1を完走するほどの実力を持っているのだから、パンクで遅れなければ入賞を狙えるはずの選手である。それが登りで見知らぬオッサンに切られそうになれば、この人はいったい何者?と思ったに違いない。「実はオレは去年国際レースを完走してるんだゾ」と教えてあげようかと思ったが、それで最後に負けては恥なので黙っていることにした。
補給地点を過ぎて下りに入ると、コース上をサイクリングペースでのんびり走る黄色いゼッケンの集団に出くわす。なんでレースコース上でサイクリングしている人がいるのかと思ったら、市民120kmの最後尾だった。こんなペースでは120km完走できるはずもない。しかし抜いても抜いても前には120kmの参加者ばかり。それもそのはず全部で300人。ようやく集団の頭が遠くに見え始めたころ、遠藤さんを発見。他にも200kmの参加者がちらほら。しかし聞くとどうやら、200kmの先頭集団はこの集団よりさらに前に行ってしまっているらしい。この集団にいる200kmの選手は普久川ダムの登りで遅れた人たちだけで、そこに後発の市民120kmが追いついたらしい。
例年は市民200kmの先頭通過より先に市民120kmレースがスタートし、市民120kmの先頭は市民200kmに追いつかれることはなかった。しかし今年は順番が逆で、市民200kmの先頭通過より後に市民120kmがスタートしていた。市民120kmの先頭集団はスタートしたばかりで元気な人たちなので、それを追抜いて200kmの集団を追走するのはもはや不毛な努力と判断。この時点で市民200kmの先頭集団に復帰できる望みはほぼ消えた一方、市民120kmの先頭集団について行きさえすればよいのでとりあえず完走しようと思った。
市民120kmの部は人数も多いだけあって、実力差がかなりある。スタート直後からサイクリングペースの人もいたくらいである。20kmも行かないうちに長く伸びた集団は中切れを起こし始めた。本島最北端の登りではすでに集団は100人以下に減っていた。これでだいぶ安全になったと思いきや、痛いほどの豪雨に見舞われた。あまりの雨の激しさに前もよく見えず、道路は所々冠水し、トンネルの中だけが唯一安全な場所になった。さらに今度はすぐ前でスタートした市民80kmの集団に追いついてしまい、またまた危険度増大。80kmの集団と一緒に2回目の普久川ダムの登りに入ると渋滞は必至なので、120kmの集団は一気にペースを上げて80kmの集団約250人を抜きにかかった。相変わらずの豪雨の中だがスピードは追い風のため45km以上出ている。登り口直前でようやく80kmの集団ほとんどを追い抜くことができた。
登りに入るとこれがまたペースが速い。120kmの人たちはまだフレッシュのよう。一方こっちは2度目の登りなので脚が重い。どうにか頂上まで先頭集団から切れずに到着すると、もう10人ぐらいしか残っていなかった。市民120kmはこんなにバラけるレースだったとは知らなかった。頂上を通過して下りに入るといきなりコーナーでスリップして落車発生、5、6人ほどが避けきれず転倒。私のすぐ前での出来事だったが、左のペダルをはずして脚をついて、コケずに済んだ。が、脚をついた瞬間にその脚がつってしまった。スタートするのに手こずり、少し遅れてしまう。その後少し登って補給所を過ぎると、またまた激しい豪雨。ブレーキの効きが悪いのでひたすら安全速度でコーナーを回った。
下りきると再び標高差200mの登りにかかる。さすがに皆もうフレッシュとは言えない様子で、ペースはまったり。登りきると前方には市民200kmで先頭集団からちぎれた人たちがヒラヒラしているのが見えた。そこで一旦前に出てしばらくの間速いペースで引いてあげると集団はやる気を取り戻したようで、多くの人がローテに加わり始めた。下りの落車のせいで、これが市民120kmの本当の先頭なのかどうもはっきりわからないが、前にいたとしてもせいぜい2、3人のはず。市民80kmの選手も混じっていたが、こちらもほぼ先頭集団のようで、皆結構速い。前方からは、市民200kmや国際200kmでちぎれた選手がどんどん落ちてくる。優勝候補と思っていたジャパンカップオープン4位の早稲田松田究は完全につぶれている。165km付近、前方の登り坂が見渡せる所で、それほど遠くない位置に大集団が見えた。2分ぐらいの差だろうか。市民200kmの先頭なのかも知れない。こちらの集団にはつぶれずについて来れた選手が合流し、30人近くに増えている。しかし170km付近の見通しの良い平地でも、再びその先行集団を視界に捉えることはできなかった。
そして175km地点からいよいよ源河への三段坂に突入。ここでは余力のない選手はどんどん切れていく。私は補給地点でもボトルはとらずに通過し、そのまま先頭で自分のペースで登り続けた。すぐに120kmの選手2人がアタックして行ったが頂上少し手前でタレて、結局私が頂上をトップ通過。そのまま攻撃の手を緩めず下りも全力で行く。ここで休むと登りで切れた選手に平地で追いつかれてしまう。そういう選手は平地では引けないので集団全体のペースが落ちてしまうのだ。速い人だけを連れて行ってゴールまで速いペースを保って行きたかった。作戦はうまく行って、平地区間ではさらに市民200kmの落ちこぼれをどんどん吸収することができた。元シマノの国末・住田、BR-1のアンディ・ウィタカなどもいた。石田さんも吸収、三段坂までは先頭集団に残っていたのだという。
200km, 120km, 80km の混成集団約15人のままゴールへの直線500mに突入。クラスごとに別れてスプリントすればいいのにごちゃごちゃである。市民200kmは着順争いをするような順位でもないのだから、皆集団からはずれてゴールすればいいのにと思い、また万一の落車を避けるためにも道路左脇に寄って、他の人の動きを見ていた。すると集団中央でパインヒルズ野崎が120kmの選手に混じってスプリントを開始したので、仕方がないので合わせて行き、ゴール手前10mでかわした。
リザルトを見たときは正直驚いた。メイン集団からは3分遅れで、メイン集団からの脱落者は一人を除いて全員吸収していた。パンクで集団から脱落してからゴールするまでの140km以上の追走で、結局30人(うちメイン集団28人)を除いた約180人を抜き去ったことになる。これだから200kmのレースは、あきらめなければ最後まで楽しい。国際レースのテキストライブを見ると、スタート直後のアタックでほぼレースが決まってしまったものの、追走して7位に入ったデビッドマッキャンは実は一番強かったんでしょう。普通ならプロはすぐやめてしまうんでしょうがね。
これでツールドおきなわ200km連続完走記録(国際レース2回を含む)が9になりました。10回目の来年を引退レースにする予定です。ちなみに、市民200kmでの最高順位は1回目1997年の9位、最低は2000年の38位です。