テキスト


風がふくたび、新しい世界がやってくるBehind every wind there comes a wolrd that is not that of before

1993年、自分の結婚式から少し経て、朝岡あかねは「Sanctuary(聖所、寺院、神殿)」というタイトルの作品を制作した。テントのような構造のその作品は、レース生地でできており、アーティストによってその中に設置された人工光の光が透けている。人目につかず、居心地が良い、守られた場所というのは、宗教儀式を行なうようなところとなどと同じくらい神聖な場所であるというアーティスト考えは、この洞穴から発せられている、全てを包み込むような女性的で暖かい、そしてはかない光に凝縮されている。しかも、この作品においては、この聖なる場所は固定されることがなく、携帯し、他の場所に運ぶことができるのだ。この小宇宙の中では、アーティスト自身のアイデンティティを妻になる女性として再定義することとなる、新しい愛情関係との葛藤や出会いが、作り上げられつつある。


"考えや行動を決めるどんな進路も進路でしかない。
もし、あなたの心が耳を傾けた結果、それを捨てることは、
自分自身や他人に対しての罪でもない。
全ての進路を間近で慎重に見て、自分が必要だと思う以上に観察しなさい。
そして、自分自身、自分だけに次のように問いなさい。
この道は心を持っているのだろうか?もしそうなら、この道は良い道だ。
そうでなければ、それには価値はない。"
カルロス・カスカネダ
『ドン・ホアンの教え』


光りの透ける布は、グルノーブル(フランス)にあるボ・ザール(美術学校)で1992年に初めて展示された「Mother(母)」という作品でも使用されている。作品には、天井からつるされた布によって、人が入ることの出来る螺旋の小道がある。その小道の繊細な美しさは、その作品の中心部に観客を導く。そして、布にある無限の隙間の連続性と、裏表同様に仕上げられた生地の両面性の概念が、作品にどのように潜在されているかを考えるために、観客はその道を引き返していく。朝岡は、代々母と娘を繋いでいる、偉大なる鎖(へその緒)による、目に見えない繋がりをほのめかす光景を作品で表現した。螺旋を描くこのへその緒は、過去や未来を越えて女性を繋いでいる。朝岡は、自分が母になる可能性について考えたとき、この回路(繋がり)を自分が壊してしまうかもしれないという恐怖、そして、自分が娘を持ち、さらにその娘が女の子を身ごもるというように、その螺旋を描き続けかねない、そうはしたくないという切望と直面することとなったのだ。そして、1995年に朝岡あかねは「Till death you do pat(死が二人をわかつときまで)」という作品を2バージョン制作した。これは、将来結婚する相手(男性)とは、見えない赤い糸で繋がっていると言われている、子どもに聞いた言い伝えから始まった。作品では、男性用ワイシャツの下の部分が、床に届くほどに伸びており、床につくと女性用のドレスになっている。床を波打つ黒いシルクの布は、イヴをそそのかしたあの蛇のくねくねした動きを連想させ、さらに中国哲学の陰陽(訳者注:中国の哲学・宗教で陰陽は、否定的で暗い女性的な陰と肯定的で明るく男性的な陽の2つの原理からなっており、この両者の相互作用が生物や物事の運命を左右するとされている)の相互関係をほのめかすのみならず、私達が死と固く繋がっているという不穏な思いを抱かせる。
二つのうちの一つでは、朝岡は実際に人が着用できるサイズの作品を制作。もう一つは人形の服の大きさで、抱きかかえることのできるくらいの空間の中に組み立てられており、相互連結と分裂の概念という、明確の差異を持った作品の2つの輪郭を描き出している。この2つに分かれた概念は、互いに最後は1つの目的地に到達するのだ。そのうちの一つは、彼女自身の人生観の具現化したものに関連しており、もうひとつは宇宙の様々な謎を私達が何と呼んでいるかを精査している。つまり、双方とも、日常で使われている表現における集合無意識古態型について探るものなのだ。

(訳者注:ユング心理学の集合的無意識(collective unconsciousness)説では、一種族が祖先から受け継ぎ、個人の精神に偏在する無意識の観念や、思考、表象の形を古態型という。)




"親密な空間と世界とは、その大きさゆえに調和しつつある。
人間の孤独の深みをかえりみるとき、この二つの大きなものは、触れ合って溶け合う。"
ガストン・バチェラー
『The poetics of space』


 光は、知識の象徴や人生のあらゆる面を豊かにする自然の神の現れとして、また体と精神を維持するのに必要な要素として考えられている。しかし、こういったカテゴリー分けは朝岡の考えや視点の土台となっている東洋の世界観から見ると、何の意味も持たない。「Last Supper(最後の晩餐)」(1991)では、パンとワインがキリストの肉と血に象徴的に例えられるというキリスト教における本質的部分が、アイロニカルに光りの宴への軽やかな招待に置きかえられている。このように、朝岡は作品で異なる宗教概念を繋ぎたいという願いを明らかにしている。
日本の神社には、人間の形に似せた神を表すものはない。そのかわり、境内に訪れた人々の姿を映す鏡がある。神は、光りや空気、自然、葉っぱ、吐息、風の一吹きにも存在するというその考え方―それは、光りを食すということは他の自然の構成要素を吸収するという考えに似ている―は、閃光や"カルマの交流における青いまばゆい光り"として自己(=Self)が理解される世界を示唆する。
(訳者注:カルマとはヒンドゥー教や仏教では、現世または来世で必然的な応報を自らにもたらすものと見られた善悪の所業とされた。さらに現世の人間を前世のおのおのの所業に応じて報いたり、罰したりする宇宙の原理。)
日本の詩人の宮沢賢治は次のように言っている。

"これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です"
宮沢賢治
『春と修羅』序(心象スケッチ)
(宮沢賢治全集1 1986年初版 筑摩書房)


多くの西洋の哲学者や科学者達は、東洋の伝統との接点を探し求めている。中世の錬金術師の物理的過程を考えた道教と、集合的無意識へ至る過程とグノーシス=直観的認識(霊知)との関係について考えているユング心理学について―つまりアニムスとアニマを結びつけている関係(訳者注:ユング心理学において「アニムス」とは女性における無意識の男性的要素、「アニマ」とは男性における女性的要素のことを指す。両者は、常にその会話を非常に低いレベルに引き下げて、全て不愉快で怒りっぽい情緒的な雰囲気を作り出してしまう。)についてと、陰陽の周期が循環するように相反する物がお互いに補完し合うという原則について―フリッチョフ・カプラ(理論物理学者)は語っている。そのように、西洋人は科学万能主義と機械的世界観への偏重の後、女性性を再発見させるような、精神的癒しを体験することとなるだろう。因果関係における西洋の原則の代わりに、東洋の哲学者達を鼓舞させた「同時性の原理」(訳者注:あるいは、たんに意味ある偶然の一致とユングが呼んだもの。それは心の状態と現象界の出来事を繋ぐ内的な無意識の知識の存在の仮説に基づいており、それゆえに"偶発的"あるいは"同時発生"と思われるような出来事は、心的に意味深いものである。なお、その意味付けは、しばしば外的事象と合致する夢を通して、象徴的に示されるのである。)の効力は、他の事象に比べ同時発的・偶発的と思わせるような外界事象を捉える知覚(感覚の働き)に根ざしているという事実から引き出されている。時間は循環的で閉じているという概念を持った私達人間としての歴史は、時間的に繋がっており、その自然の摂理、つまり季節や人生という異なった形で行なわれる永遠の繰り返しに対する居直りのようなあきらめもまた、「Rebirth(生まれかわる)」(1993)で見ることができる。これは、作家の誕生日のときに制作されたもので、小さな羽を持った透きとおるプラスチックのジャケットである。彼女の誕生日パーティーで、螺旋の円蓋の階段を上る前に、招かれた客はそのジャケットを1人ずつ着る。その階段は、まるで客人達を宇宙へ投げ込もうとしているようである。こうして、この作品は象徴的に誕生と死のプロセスの新しいサイクルを提案し、再現するのである。
(訳者注:前キリスト教的東方的起源を持つ古典ギリシア後期の宗教運動の一派でグノーシス派というものがある。グノーシスとはこの場合神の秘儀についての直観的認識(霊知)であり、これを根本思想としたキリスト教の分派は1世紀に起こり、2〜3世紀に発展をとげたが、正統教会より異端とされた。彼らは宗教的に徹底した霊肉二元論をとり、人間は本来、自己の内に神の火花を有し、また地上界からの解放の欲求を抱いており、この人間の自我に救いとしてのグノーシスをもたらすのが、天上界よりくだったイエス・キリストで、このグノーシスによって人間ははじめて救済されるに至ると説く。)
(訳者注:道教の哲理、道とは、万物が生起または存在、変化する宇宙の原理、道理、法則のこと。人間活動または人間行動の合理的基盤で、老子、荘子に始まる中国道教の中心概念。この道を守れば「不老長寿」が得られる。)

"どんなものでも、永久に犠牲にしたまま葬り去ることはできません。
すべてのものは、やがて、姿を変えて元へ戻ってきます。
かつて大きな犠牲が払われた場所に、犠牲にされたものが戻ってきたときには、
健康で抵抗力のある肉体がなくては、そういう大きい変革による動揺に耐えられないのです。"
C・G・ユング
『黄金の華の秘密』 リヒアルト・ヴィルヘルムを記念して。
(C・G・ユング R・ヴィルヘルム著 湯浅泰雄・定方昭夫訳 1980年初版 人文書院)

 朝岡が自分の作品のいくつかに、「Archetype(原型・古態型)」という名をつけていることは、異文化や世代間での違いをしのぐ、あらゆる現象(個人の精神に偏在する無意識の観念や思考・表象の形)と折り合いをつけようとしたときに、アーティストの採った方法と、集合的無意識へ至るために、人間の個人的象徴と他の文化や時代を象徴するものとの間を彼女が移動していることを反映している。月面を人類史上初めて歩いている宇宙飛行士の映像から−これはテレビで放映され、全世代の想像力における本質的な部分となっている(訳者注:ユング心理学者によると、多くの現代人の夢や幻想の中で、宇宙探検の巨大ロケットは、超越と呼ばれる自由や開放の欲求の20世紀における象徴的具体化として、しばしば現れる。)―運動場や都市計画、星座、また私達の人生の未来を暗示する無意識の世界の地図や曼荼羅と解釈されるような星位の創造までという、他の感覚や真実を認知する方法の新しい可能性の追求が、立場や視点の変化を探索する彼女の道程を豊かにしている。それは、宇宙の謎を私達がもっと早く理解できるための、また世界の重みから私達を解き放つための追求である。現実的には異なる存在空間にある、目に見えない繋がりをたどる確かな直観は、Constellationsプロジェクトでの詩的形の中ではっきりと明らかにされた。このプロジェクトは1991年に開始され、現在はラ・カイシャ財団モンカダギャラリーのインターネット上で進行中である。朝岡は、ネットユーザーに自分達が住む街の夜の映像を送ってもらった。次に、アーティストが、その映像の中で見つけた街の光りを白い線でお互いに繋ぎ、やがてその映像を返却する。そこには架空の星座が描かれているのだ。このようにして、彼女は時間的・空間的繋がりを持った構造物の外へ踏み出したい、人間関係における多数の要素から成る流れ行くようなポイントを作りたいという願望を表現した。占星術の予言は天体の動きそのものではなく、天体に明確な形や意味を与えるその時代(とき)を基準としていると考えられているので、空と街は、スクリーンとして、また、私達のゲームや幻想、自分達の未来に意味を与えてくれる信号を投影する場所として捉えることができる。
(訳者注:聖なるもの世俗的なものを問わず、曼荼羅式の平面の上に立てられた建造物は全て、人間の無意識の世界から出てくる元型的なイメージを外界に向けて投影したものである。都市・城郭・寺院などは心の全体性を象徴するものであり、それがために、そこを訪れたり、その地に住んでいたりする人々に特別の影響を与えるのだ。)

"人類の人生で起きる出来事を予想するアンテナを与えてくれる星を描く"
(マイケル・レイリス)

現実世界においる、形而上的範囲を拡大していくような意識の違った形での出現や、私達が見上げる星は、その星が滅んでしまってから長い時間が経っており、星の時間に記憶された光りの閃光を発しているにすぎないという奇妙な現実に私達を気付かせることに好都合だったので、I'cing=易経は"時代のその瞬間における、(同発的・偶然的)神秘的特性を判読できるようにした"のだ。天文学者は、対物レンズを覗いて対象物を見て働いていると信じているが、彼らはただ宇宙の記憶を解説しているにすぎないのである。(訳者注:易経:古代中国の易占いの書物。中国哲学の2大主流―道教と儒教―は「易経」の中に両者共通の根源を持っているいう。その書物は人間とそれを取り巻く宇宙の同一性、さらに相反するようと因果互いに補足し合う一対であるという仮説に基礎づけている。それは6本の線で構成されている線描によって、それぞれ表現された64種の"符号"で自然・倫理・政治を解釈し説明する。それぞれの符号は人間界の宇宙の情勢の変化を示しており、さらにそれに続いて生じる過程を絵画的な言葉で規定している。中国では、その符号がそのときに適当かを示してくれる方法によって、その神託に相談をかける。これをナンセンスだとは言いきれない理由として、ユング心理学者はその"同時性"にあるという。)
「Waiting for the storm(嵐を待ちながら)」(1997)というラ・カイシャ財団モニカダギャラリーのために特別に作られたインスタレーションでは、原型として家は再び利用された。その場所と肉体とを、一つの行為ともう一つの行為とを、誘惑と欲望とを結びつけるために、朝岡は世界を埋め尽くす力、家から宇宙までの―つまり内部(精神的部分)から外部(肉体的部分)感覚への―道のり、その力の流れを見つけ出したいという願望を捜した。このように肉体は家として、そして家はもう一つのより大きな肉体として、町もまた私達を守る場所として、つまり、私達の家になるものとして、また、他の惑星と繋がっている(肉体のある)地球として体験されていく。私達が母親のお腹から出る瞬間から、自分の知らない世界へ飛び込むという、恐ろしくぶざまなあの考えは存在しており、それは暗闇の宇宙から小さな命綱によって守ってくれる移動式の家、つまり宇宙カプセルとしか繋がっていない宇宙飛行士が宇宙の中を漂う、という例えにまで拡大していく。


"ものすごいはやさで膨張している宇宙の片隅で生まれ死んでいく。
机の下にもぐりこんで、絶え間なく変わっていく風景を見ている。
風はだんだん強くなって、星空を雲が覆っていく。雷が落ちるかもしれない。"
朝岡あかね


危険なものや知らないもの、世界の秩序を破壊してしまう嵐から守ってくれるものとして家を使いたいという欲望は、自然を支配したいという願望、全てをコントロールできると信じているプライドと似ている。その欲望は"自分の恐怖心を克服したい"、また分析や計画によって、予測不可能のものと思われるものを予言し、自信を回復したいという時に起こる。嵐の無秩序から自由になったとき、私達が世界を統治する法を理解すること−私達の周りで起きていることの重要性を知ろうとすることの努力−がいかに不充分であるかを知る。しかし、またそれらの努力が、いかに必要であるかというパラドックス(逆説・矛盾)をも感じるのだ。チャンスが来たら行動できるように、また飛行機が目的地へ向かってそのコースの雲の中を通過するごとく、その機会を上手く通過できると思うように、私達は意味ありげに機会を探し、その機会の意義を見つけようとする。そして、私達はアートと科学を真実へより近づくための二つの方法だと考える。一つは客観的実験という方法によって、もうひとつは私達をあちこちへ動揺させる感情を作り出すメタファーを含んだ変動を捜し出すことによって、つまり"一瞬を照らす視界を持ち出してくる"ことによって、アートの言葉を通して、私達を真実についての深い知識により近づけるのだ。朝岡の家の屋根は開かれ、窓から見える風車の変速の不穏なイメージによって、彼女は内部と外部との間にある繋がりをそれとなく言及し、同時に一方では、世界の秩序とリズムがまさに劇的に後戻りできないほどに堕落されつつあるというような、恐ろしく魅惑的な瞬間の力を提示している。そして、台風の目というものがあり、台風の内側では真っ青な空を見られることができ、台風の後ではいつもの毎日が戻ってくるということを知り、記憶の中では夢のように感じられる経験の堆積物によって価値が高められた、災難時に興奮と入り混じった恐怖と困難さ−"喜びを持って災害を待つ"−を私達は作品を見てすぐに感じる。このようにして、それ自身、人生における私達の態度の変化そのものであり、待つことは気ままで、発生と変化の移ろいやすい流れから自由になることを、そして、私達は夢をみているのではないということを−それでもいくつかのものは私達に夢を見させるのだが―信じさせてくれる宇宙の力との神秘的な和解の意味するものへと変化することへの困惑を提示する。つまり、私達自身を"精神病患者の絶対必要な確実性"から遠く離れたところに位置付け、"最悪のものは中心には決してない"(ラカン)ということを私達に精神的に確認させ、"風が吹くたび、新しい世界がやってくる"という、よしかれあしかれ、正反対のことを言っているRaman Gomez de la Sernaの格言の一つのように、希望を私達のまえに開示する健康的で幸せな不確実なもの中に、私達は住でいる。

"夜明け前の静寂の中
影はその形を失い
私達は朝を迎える。
嵐が来る前の静けさの中
混乱した、休みのない心が誕生する
終わりのない愛の川"


The Moody Blues
"The River of endless Love"

Rosa Martinez ロサ・マルティネス(インディペンデント・キュレーター),1997

"Waiting the storm"展カタログより

訳:山本円香


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