*「ノーカントリー」



監督:イーサン・コーエン/ジョエル・コーエン
東宝シネマズ西新井にて

 見た直後は、圧倒されて、絶句した。
 「ジャッカルの日」を思わせる、ドキュメンタリー・タッチ。麻薬取引で相討ちの現場に偶然遭遇した男が金を持ち逃げするくだりをタイトに的確に余計なセリフを一切排除して描き、それを追う「殺人マシーン」のような男が冷徹に追いつめて行く過程を、これまたギリギリとタイトに描いて行く。この男、アントン・シガーの行動と、その描写が、映画史上最強の暗殺者・ジャッカルにダブるのだ。コーエン兄弟は意識していないだろうけど。
 実際、このシガーは、ジャッカルと同じように、「仕事」としてある男を殺そうとする。そのためには邪魔になるものを次々と容赦なく「排除」するように殺して行く。
 殺しのプロ中のプロであるジャッカルを、フレッド・ジンネマンは、ドキュメンタリーの手法で淡々と感情を交えず状況をハッキリわからせる正確な描写で見せて行く。
 それと同じに、この作品も、シガーの「圧縮ガスを使った強力エアガン」による殺戮を、淡々と描いて行く。
 が。
 「ジャッカルの日」は怖くなかったが、この作品は、怖い。ジャッカルは怖くないが、アントン・シガーは怖い。実に怖い。
 なぜか。
 それは、シガーは、不条理な存在だからだ。
 ジャッカルは、「殺しのプロ」だ。ビジネスとして殺しをやる。だが、シガーは、仕事として殺すけれども、邪魔者の排除に当たっては、かなり恣意的に、コインの裏表を相手に決めさせて殺すかどうか決めたり、いや、そもそも、その相手だって、殺す必然性がまったくないのだ。ただターゲットに接触したから、自分と関わったからという理由だけでバリバリ殺して行く。正確無比な手腕で。
 これはもう、不条理としか言いようがない。
 理由なき犯罪、理由なき悲劇ほど、割り切れず気味が悪いものはない。だから、人々はどんな事件にも理由を求めて、なんとか「理解」しようとする。しかし、現実には、理解を絶する事が山ほどある。想像を遥かに超えてしまうもの。それが不条理だ。

ふ じょうり ―でうり [2]【不条理】
(名・形動) ナリ
① 筋が通らないこと。道理が立たないこと。また,そのさま。
「―な判定」
「―な事件」
② 〘哲〙〔 フランス absurdité 〕実存主義の用語。人生の非合理で無意味な状況を示す語としてカミュによって用いられた。
―さ(名)

 コーエン兄弟は、この「不条理」を一貫して描いてきた。時には「ビッグ・リボウスキ」のようなコメディとして。時には「バートン・フィンク」のようなホラーとして。時には「未来は今」のようなしみじみ(でもないか)人生劇として。「オー、ブラザー」だって、脱獄囚の想像を絶する運命の変遷というのは不条理だ。
 が、この作品のように、ストレートなアクション・スリラーとして描いた事はなかった。(「ファーゴ」「ミラーズ・クロッシング」を未見なのだが……)
 「殺しに当たって、なにか自分なりの厳格な基準(それは常人には理解不能な特殊なもの)を持っていそうな男」は、恐ろしく不条理な存在だが、人生における不条理とは、多かれ少なかれ、暴力的なものだ。自分が予期しない事が起きれば、それがかなり重い出来事ならば(愛用のパソコンが壊れたとか、愛するペットが突然死ぬとか)、それは、突然、自分に非がなくても殺されるのと同じ分類に当たるんじゃないか。
 コーエン兄弟は、この辺の事をデビュー以来、描き続けてきたと思う。時にスタイルを変えて、たいていの場合、人を食った展開をする。その「人を食った部分」がコーエン兄弟のたの追従を許さない独創であって、キチガイの妄想に近いものを感じるので、ヒリヒリする緊張と知的刺激に満ちているのだ。だから、コーエン兄弟の世界にハマると、麻薬中毒のようになってしまう。
 今回、ウディ・ハレルソン扮するカーソン・ウェルズ以外、出てくるキャラクターはみんなシリアスだし、「病めるアメリカ」(これもコーエン兄弟は一貫して追っているモチーフではある)がバックボーンにあるし、演出がリアルを前面に押し出したタイトなものだから、作風が一変してしまった感がある。だが、やっぱり、根っこは同じなのだ。
 「今回はちょっとシリアスにやってみました」という人を食ったコーエン兄弟の笑い顔が目に浮かぶ。
 当人たちもインタビューで語っているが、ラストに「すべての決着をつける」シガー対保安官(トミー・リー・ジョーンズ)の対決があれば、カタルシスがあってスッキリしただろうが、見終わった後に観客にあれこれ考えさせる力は持たなかったかもしれない。
 いろんな意味に解釈出来る終わり方は、キューブリック的であり、アート・フィルムの常道でもある。「2001年」なんか、ラストのあの「ワケの判んないシークェンス」があるから一気に芸術映画になって、リバイバルすれば必ずヒットする魔法の映画になったのだ。
 しかも……あの釈然としないエンディングには深い意味がある。パンフをはじめ、いろんな文章には「父親に導かれるイメージは、かすかな希望の象徴」という解釈が書かれているが、オレが思うに、まったく正反対だろう。死んだオヤジになんとかして欲しいほどに、現状は絶望的で、為す術がないのだ。まったくお先真っ暗の絶望。それがあのラストだ。死んだオヤジ、それも生きた時代がまったく違う人間に、何を求められるのだ?なにもない。ただ、心の一時的な平安を得られるだけなのだ。夢の中でだけ。
 絶望的ではないか。
 ……だが、この状況はまったくリアルだし、今の日本とそっくりそのままだから、この恐怖は肌で実感出来るが、このハナシは「事実に基づく創作」でもなんでもない、純粋なフィクションだ。演出がリアルだし、登場人物の造形もリアルだが、フィクションなのだ。
 もしかして実話?と思わせるところに、コーエン兄弟の凄さがある。現実とリンクさせるさりげない描写(冒頭の、傷ついた犬が哀しげにトボトボ歩いているショットとか)がさりげない故に大きな効果を上げている。
 
 そして、ハビエル・バルデムの存在感は圧倒的。原作者は「純粋悪」としているし、評論家たちは「絶対悪」としているが、この人物こそ、不条理そのもの。不条理の象徴。偶然性の具現化。相手に答えを出させて、その答え如何で生死が決まる。しかも彼には、他者に理解出来る「原理原則」がない。まさに不条理そのもの。「正解」を読んで答える事が出来ない以上、生き残れたのも偶然の産物。そんな人物を、ハビエル・バルデムは、「もしかして実在するの?」と思わせるほどリアルに演じてしまった。これは怖いよ。冒頭の、手錠で保安官の首を絞め殺すシーンの、あの壮絶な顔を見てしまうと、この役者の事は一生忘れない。
 その対局の、静かな抑えた演技が、これまた印象に残るトミー・リー・ジョーンズ。以前の常識が通用しなくなって、「もうオレの手に負えない」と途方に暮れる保安官の姿はリアル過ぎる。これは、今の日本の警察官にも共通するのではないか。
 大金を持ち逃げして、悪あがきするモスも、もっと早く殺されてしまうのかと思いきや、意外に生き延びて、「頑張ったじゃん」と思わせる。凡人の悪あがきも、怖い。
 いつもの、スティーブ・ブシェーミとかジョン・グッドマンとかフィリップ・シーモア・ホフマンのような「独特だが心を和ませる」常連が一切いないが、ウディ・ハレルソンの、押し出しは良いが結局は言うほどじゃないヤツ、は笑った。
 
 この作品は、リアルでシリアスな衣をまとい、ラストのはぐらかしが典型的アート・フィルムになっているので、「誤解」する人も多い。それはもう、コーエン兄弟の術策にハマってしまった証拠だ。彼らの「してやったり」という哄笑(悪戯坊主の)が見えるようで、それがまた、ファンとしてはカイカンなのだ。

Posted: (金) - 4 25, 2008 at 10:56 AM             |


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