ペーター・コンビチュニーオペラ演出ワークショップ



 8時起床。
 日記を書いたり、アスクルやアマゾンからの荷物を待っているうちに、すぐお昼になってしまった。
 久々にご飯を炊いて、釜揚げしらすを買ってきて、熱々ご飯で食べる。美味いっ!
 
 昨夜、東京ミッドタウンの構内BGMで、以前から曲名が知りたくてたまらなかった(でもいつもその事を忘れている)曲が流れていて、血が騒いだ。
 アタシの田舎には唯一の民放「四国放送」がある。大阪の電波がすべて入るので、ローカル局は1つしか存在し得ない土地柄なのだが、その「四国放送テレビ」でアタシが子供の頃から放送していた「サンデーツアー」という番組。これは地元の徳島バスが主催するバスツアーを紹介・案内する宣伝番組で、徳島バスの観光バスがえんえん走っている映像にツアーのテロップがWるだけのシンプルなもの。これのバックに流れていた曲。トロンボーンとストリングスがムードたっぷりに演奏するアレンジの感じはビリー・ヴォーンのようなのだが、曲名が判らないと探しようがない。
 で。
 iPhoneには「midomi」というソフトがあって、これを起動させてiPhoneに向かって鼻唄を歌うと曲名を検索してくれるという画期的なモノ。かなり以前からあって、いろいろ試してみたら、外国のポピュラー・ソングは命中率が高いけど日本の歌謡曲は弱い。加山雄三はヒットしても石原裕次郎は検索不能でスルーされてしまう。
 そんなこんなで、ものは試しと、その曲を鼻唄で歌ってみたら、ヒットしましたねえ!たちどころに出てきた。コール・ポーターの「You do something to me」という曲。
 早速、iTunesで探してみて視聴してみたら、まさにこの曲!しかし、iTunesに入っているアレンジはどれも「サンデーツアー」で使われていたものとは違う。アタシはあのアレンジで聞きたいのだ!ビリー・ヴォーンのCDを探して、この曲が入っていないか調べてみたが、どうも見つからない。ストリングスが盛大に入っているから、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーじゃないはず。昔懐かし101ストリングスなのかなあ?(曲を購入してみたら違った。一番近いのは「ブラジリアン・トロピカル・オーケストラ」という正体不明のモノだが、これも違うんだよなあ)

 てなことをやっていると、すぐに2時を回って、歯医者の時間。歯の治療があると、どうも落ち着かない。
 治療自体はすぐ終わって痛くもなかったが。次回は再来週になってしまった。

 一度帰宅して、外出の用意。今夜は、高名なオペラ演出家、ペーター・コンヴィチュニーの公開演出ワークショップ。映画や芝居の演出の現場は知っているが、オペラの演出ってどうやるのか興味津々。しかもコンヴィチュニーだ。新百合ヶ丘の昭和音大にて。
 所用で外出中の相方とは現地で集合するので、単独で出発。北千住から千代田線の多摩急行(最近本数が飛躍的に増えた)で新百合ヶ丘。だが、ブラームス1番を聞きながらウトウトしていたせいで、どういうわけか成城学園前で降りてしまった。プラットフォームをウロウロしてエスカレーターでコンコースに上がったところで、「なにをやってるんだ!成城学園には用はない!」と思い出して、慌ててプラットフォームに戻る。どうりで予定時間より早く到着したと思った。しかしどうして新百合ヶ丘と成城学園前を完全に取り違えてしまったんだろう?こういうことが増えていって老人ボケが加速していくんだろうなあ。嫌だなあ。
 気を取り直して、1本後の急行に乗って、新百合ヶ丘。駅で立ち食いそばでも食べようと思っていたが、その時間がなくなったので、コンビニでパンでも買おうと思ったら、目の前を相方が通過しようとしていたので、呼び止めて合流。パンとかオニギリを買って、会場へ。
 昭和音大の公開講座はいつも満席になるし、今日はコンヴィチュニーだから早く行かないと席がなくなる(定員制だけど)と思って急いだら、どういうことだ、空席があるぞ!七分ほどの入り。もったいない。実にもったいない。
 ロビーでパンとおにぎりを食べて、客席へ。

 前半は、公開ワークショップ。タンホイザー第3幕の一部を、藤原歌劇団のメンバーを使っての、演出の実際。
 まあこれは、ワークショップと言うよりデモンストレーションですな。まったく白紙の状態からのスタートで、棒立ち・演技なしの二人の歌手に演技をつけて行く。まったくの棒立ち状態からだから、演出の過程はよく判るのだが……今日の歌手二人はちょっと気の毒な感じ。
 しかし、台本の歌詞を読み込み、楽譜を読み込み、オーケストレーションを理解して、ワーグナーがナニを表現しようとしているのかを咀嚼して振り付けていく(まさに振り付け。芝居のように役者の考えを引き出して絡み合わせていく演出とはまったく違う)のは実にスリリングで、ゾクゾクした。
 ワーグナー自身が書いた台本には、感情とかの説明はあるのだが、芝居の指定は殆どない。自分で演出するつもりの監督が書いた脚本のようで、自分で何をやりたいか判っているから、台詞と最低限の指定しか書いていない、という感じ。それを演出家は読み取って、補足というか、行間を埋めていく。これは、すべてを書ききれない楽譜から作曲家の意図を読み取ってオケに指示を出す指揮者と同じなんだなあ、と改めて思った。
「ここはチェロが奏でるが、なぜチェロなのか。それを考えなければいけない」
「ここは譜面にアクセントが記入されているが、ワーグナーはどうしてここにこういう指定をしたのか?それを考えなければいけない」
「剣で手首を切るタイミングはどこなのか、音楽の場所を探らなければ」
 などなど、方法論と実際論の両面で、オペラ演出のほんの一端を見せてくれた。演出にはセット・デザインや衣裳デザインも大きな部分を占めているし、どういう時代設定にするかも解釈上、決定的な意味を持つ。
 そのへんは、休憩後の「講演」で話してくれた。オペラが作られた当時の作家と観客の関係を、今の時点で再構築しなければ、作品の持つ意味とか作者の訴えたいところが伝わらない。原点主義が「台本の通りに初演当時のままにやる」ことなら、それは違うと思う、と。
 演出家の強引な解釈や意図が目立つと、オペラを踏み台にした演出家の作品になってしまう。そういう悪例は多数あると思うが、コンヴィチュニーは、作者の意図を現代においてきちんと伝えるにはどうすればいいかを最大のテーマとして考えていて、様々な工夫をしている。と本人はそう言った。その実例を「ヴォツェック」のDVDで見せてくれたが、なるほどと思った。ただ、貧しいダメ男が妻を殺したというのじゃなくて、「貧困」という社会問題が悲劇を引き起こしたのだということを、オペラを見に来る貧困層ではない客に伝えるにはどうするか。「貧困」とは、経済的に貧しいことではないのだ、と解釈するところから発想された演出は、なるほどと思わせた。

 オペラの場合、演出家と指揮者の領域はかなり重なると思う。かなり尖がった、破壊的演出なのにオケから出てくる音楽は正統派、という場合も多い。演出はハチャメチャでも音楽は正統的にすることでバランスを取っているとか、音楽はあくまできちんとやることで演出で自由に出来るという、「一種、演出家が甘えた演出」もあるだろう。かなり尖がった(「革新的な」とは言いたくない)演出なら、音楽解釈も同様にしたほうが、もっと面白いんじゃないかとは思うのだが、それをやったら公演自体が壊滅的な失敗に終わることもあるだろう。
 前回の、ドレスデン州立歌劇場支配人の講演では、演出家の意図と対立した指揮者が降りるケースもままあるらしいし。
 コンヴィチュニーの演出も、すべてが成功しているわけでもないだろうし、昔ながらの、昔のままの演出ならそれがいいかと言えば、それでは歌舞伎同様、時代から取り残された伝統芸能になってしまう。歌舞伎もオペラも、現代感覚を取り入れながら変化し続けているからこそ、生きたエンターテインメントであり続けているのだと思う。
 そして、コンヴィチュニーほど台本と楽譜を読み込んで考え抜いた演出なら、観客のイメージとは違っていても、幕が下りた時にはそれなりに納得する舞台になっているだろう。

 終わった後、昭和音大近くにオープンしたラーメン屋に入ってみる。澄んだ東京ラーメンだが、トリの出汁が濃厚で、美味い。
 
 10時過ぎに小田急に乗り、11時過ぎに北千住。やっぱり新百合ヶ丘は遠い。
 新聞を読んで、1時頃就寝。
 なんだか悲しい夢を見て、目が覚めたらしんみり。内容は完全に忘れてしまったが。

本日の体重:89キロ(夜に重いものを食べるのはよくない)
本日の摂取カロリー:2080kcal

Posted: (火) - 6 2, 2009 at 09:34 AM             |


©